音研との出会いが人生を変えた、中央大学に感謝し、誇りに思う

白門人(はくもんびと)インタビュー

各界で活躍する“白門人”インタビュー。今回は、ザ・ドリフターズのメンバーとて長年お茶の間の人 気を博し、90歳を迎えた現在なお、現役のウクレレ奏者として活躍している高木ブー(本名・髙木友之助)氏に登場していただいた。

中大音研「ルナハワイアン」でレギュラーになれれば一流

――学生時代から音楽をされていて、そのまま芸能界入りしたと伺っています。

高木 中大の経済学部に入学してすぐ音楽研究会(音研)に入って、とにかく音楽ばかりやってましたね。音研の練習場は駿河台の正門を入って右に曲がって階段を降りたところ、講堂の地下にありました。毎日そこに直行。中学3年の頃からウクレレを始めたけど、その頃はハワイアンが全盛期。大学では、戦前に灰田勝彦さんがいた立教が草分け的な存在で、慶応も有名。中央、日大、専修なども盛んで、専修には僕らの頃は和田弘さんがいらっしゃいましたね。今の若い人はわかるかな。
 中大音研では「ルナハワイアン」というバンドが1番。そこでレギュラーになれば大学生としては一流ということで、とにかくそれをめざして練習してましたね。1級上の先輩に、トロンボーンの谷啓さん(クレージーキャッツ)がいました。あの人は高校生の時から有名でした。
 4年生になって、ガスメーターの会社に勤めていた父親が東京ガスに就職できるようにしてくれたのですが、断ってプロでやっていくことにしました。当時は、ちょっとしゃれた居酒屋くらいになると、必ずバンドが入っていたんです。キャバレーとかダンスホールはフルバンドが入りますが、そんなに大きくない店はハワイアンだと規模的にちょうどいい。ハワイアンズの協会があって仕事もたくさんありました。1 ヶ月銀座でやった後はまた次へと、飯を食うには困らない時代でした。

ミュージシャンからコメディアンに そして再び演奏者として活躍

――ドリフに加入され、「8時だョ !全員集合」などコミックバンドとしての活動に変わっていかれますね。

ミュージシャンからコメディアンに そして再び演奏者として活躍

駿河台キャンパス19階グッドビューダイニングにて

高木 自分がリーダーのバンドも持っていたんだけど、当時はバンド間でメンバーの移籍や引き抜きがよくあって、僕はいかりや長介さんに誘われてドリフに入ることにしました。ドリフは以前からあるバンドで、いかりやは3代目のリーダー。小野ヤスシらがドンキーカルテットを作って脱退して加藤茶といかりやの2人になって、僕と荒井注、そして後から仲本工事が入ることになった。ハワイアンではなくて少しロック系のバンドだったけど、前から演奏のほかに変なことして観客を笑わせていたから、僕もあれをやらされるのかなと薄々は感じていた。その頃すでにドリフはテレビにも出ていて、「ホイホイミュージックスクール」という番組では木の実ナナ、鈴木やすしと一緒にレギュラー。ザ・ビートルズの来日公演では前座で演奏。なんでドリフが前座になったのかはいまだにわからないけど、その頃所属していたナベプロ(渡辺プロダクション)の全盛期だったから、そういうこともあったのかも。ビートルズの音楽を間近で聴いて、今までの音楽とまったく違うなと感じましたね。
 「全員集合」をやっている頃にピアノ担当の荒井注が脱退して、後釜に志村けんが入る。彼はギターは弾くけどピアノは弾けない。それで音楽バンドとして形が変わってしまうけど、志村の笑いのセンスでドリフは別の形で人気を確かなものにしました。ドリフはメンバーのバラ売りをしない方針だったけれど、「全員集合」が終わる頃に個人の活動もしていこうということになっていきました。もっとも、最初に個人で仕事をしたのは僕で、ウクレレの演奏。それからは役者をやったり、絵を描いたり、いろいろなことをやってきました。

同姓同名の髙木総長との思い出 箱根駅伝を毎年応援

――90歳になってもお元気ですね。健康面で気遣っていることなどはありますか。また、母校や後輩にメッセージをいただけませんか。

高木 健康面は、特別何かやっているということはないけど、昔からよく寝ていると言われますね。僕は魚が嫌いで、昔から肉ばかり食べている。今も、焼き肉屋で大学生の孫と同じぐらい食べちゃうので、同居している娘には「ウインナーは1日2本まで」と言われてる(笑)。ウクレレの演奏は続けているから、それがいいのかもね。「1933ウクレレオールスターズ」での僕の地位は、リーダーではなく「象徴」ということになっている。
 母校・中央大学については、同級生で一緒に音研にいた友達が中大職員になっていたので、何回か多摩校舎に呼ばれて演奏したりしました。多摩は立派な校舎だったけど、東京の大学じゃなくなっちゃったと思ったりもして。ある時、多摩で総長を紹介されたら、髙木友之助先生(第21代総長)。驚いたね。まったく同姓同名。後日、髙木先生からご丁寧なお手紙をいただいたのだけど、「髙木友之助」より「髙木友之助」様宛。追伸として「後世の人が見たら、ぼけ老人の手紙と思うでしょうか」って書いてありました(笑)。
 メッセージって言われても、僕はね、先輩として後輩に何か言うっていうのが、どうも好きじゃないんだよね。中大は好きだし、箱根駅伝は毎年応援しています。中大OBはスポーツ、経済や政治など幅広い分野で多くの方が活躍しています。現役はもちろん、OBの活躍は僕も嬉しい。僕自身のことで言えば、中央大学の音研に入れていただいて育てられたことに感謝していますし、誇りに思っています。それがなかったら、ただの「ウクレレのあんちゃん」でしたから。

『アロハ 90歳の僕 ゆっくり、のんびり生きましょう』

『アロハ 90歳の僕 ゆっくり、のんびり生きましょう』
著/高木ブー 小学館 令和5(2023)年4月発行
定価2420円(税込)
「僕は普通の人」と語る高木ブー氏90歳の自叙伝。幼少期からこれまでの日々を振り返って語りおろした本。「ノンキに長く生きていることが取り柄かも」と言い「今は、毎日が楽しくてしかたがない」とも。

白門人
高木 ブー 氏

(昭31経)
高木 ブー 氏
ミュージシャン

たかぎ・ぶー
昭和8(1933)年3月、東京都生まれ。京北高校から中央大学経済学部に入学。学生時代からハワイアンバンドのボーカル、ウクレレ奏者として活躍し、卒業とともにプロとして芸能界入り。いくつかのバンドを経て昭和39(1964)年にザ・ドリフターズに加入。1990年代後半以降はウクレレ奏者として再び注目され、令和4(2022)年にはサザンオールスターズの関口和之らとともに「1933ウクレレオールスターズ」に参加している。

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