法律の先にある更生を見守る仕事

白門人(はくもんびと)インタビュー

 犯罪や非行をした人たちが再び罪を犯すことがないよう、その立ち直りを地域で支える保護司は、法務大臣からの委嘱を受ける非常勤の国家公務員だが、無給のボランティア活動。長く保護司を務め、「泣き笑いの人生だった」と振り返りながら90歳となった現在も更生保護の活動を続けている茂呂絹枝氏に、お話を伺った。

月2回、自宅で面談し、保護観察中の近況を知る

―― まず保護司や更生保護の活動内容から教えてください。

茂呂 更生保護の活動は、法務大臣から委嘱された保護司、地域の女性たちによる更生保護女性会、大学生を中心としたBBS(Big Brothers and Sisters Movementの略)、更生し社会復帰しようとする人を雇用する雇用主、そして更生保護施設の5者によって行われています。保護司には対象者がいますが、更生保護女性会には対象者はいません。地域で更生をバックアップする対象者とは、少年院や刑務所ではなく、社会の中で更生をめざす人で、保護司はその保護観察を行います。保護観察官から対象となる人を指示され、月2回の面談を行って更生のための指導や助言を行います。
 定期的な面談は行うものの、保護司には守秘義務があります。また、道で対象者に会っても相手から話しかけられない限りは声をかけません。周囲にその人が保護観察中ということがわかってしまいますからね。面談は、今は更生保護サポートセンターで会いますが、以前は保護司の自宅に呼んで、「生活はどうですか?」「仕事はどうですか?」といった話をします。そこから近況を把握し、毎月報告書を観察所に出します。中には保護観察を甘く見て来ない人もいて、面談日に現れなかったりします。そうすると相手の家に訪ねて行くこともあります。いろいろあっても指導した人が立派に更生してくれれば喜びですし、残念ながら再犯してしまう人がいれば、自分の指導の至らなさを悔やんで反省したりします。

高校2年で弁論大会に女子学生会の委員長も

―― どのようなきっかけからこうした活動を始めたのですか。

茂呂 保護司になる直接のきっかけは、近所にある回向院のご住職に頼まれたからです。ある日、夫が回向院に呼ばれて「保護司をしてくれ」と頼まれました。夫は自分が頼まれたのかと思ったら、ご住職は「絹枝さんに」と仰った。それまでも更生女性会やガールスカウトのリーダー、その他地域のいろいろな活動をしていましたから、それで指名されたのだと思います。
 私がいつも着けている黄色い羽根のバッヂは、法務省等が進める「社会を明るくする運動」のシンボルマーク「幸福(しあわせ)の黄色い羽根」です。この運動は昭和26(1951)年から始まりますが、その年、作新学院というミッション系高校の2年生だった私は「第1回 社会を明るくする運動 宇都宮市内高等学校弁論大会」に出場しました。生徒会の副会長をしていたのですが、「女性の弁士は少ないだろうが、お前ならやれる」と生徒会顧問の先生に言われて出場して、優秀賞をいただきました。「女性は強くならなくてはいけないから、進んで学びましょう」といった弁論をしたと記憶しています。戦後の荒廃した社会にあって、街にあふれた子どもたちの将来を危惧して始まったのが「社会を明るくする運動」でした。
 家庭の事情もあって中大の夜間部に入学するのですが、高校の恩師からは「中大に入ったら辞達学会という弁論部があるから、そこに入れ」と言われました。それで第二辞達学会に入ります。当時は「勤労学生弁論」が各地で催されていた時代です。昼は家庭教師のアルバイトをして、部室にも行きましたから昼の部員とも交流がありました。女性は少なかったですね。
 4年生のときに辞逹の活動から軸足を第二女子学生会に移して、委員長を務めました。会員の女子学生は20名ぐらい。当時のことですから「いずれ家庭人になるのだから、今学ばなければ、学べない」ということで、生け花教室なんかもやりましたが、「女性は如何にあるべきか」「これから女性はどのような生き方をすべきか」などもディスカッションしました。

更生保護活動への理解を広げたい

茂呂 私は第二辞達学会で知り合った夫と、卒業してすぐ結婚しました。そして子どもができて、母親として父母の会の会長や婦人会の会長、ガールスカウトのリーダーも20年奉仕させていただいたりしているうちに、いつのまにか高校生のときに触れた「社会を明るくする運動」に再び関わるようになったわけです。更生保護の活動も含め、私がさまざまな活動をやってこられたのは、やはり夫や子たち、家族の理解と協力があったからです。対象者は面談日以外にも、私がいないときに突然訪ねてきたりします。面談日には家で夫も一緒に食事をしながら話を聞いたりします。保護観察を終えた若者の就職先探しも、夫が積極的に引き受けてくれました。子どもたちも「困っている人をうちの母親は助けているんだ」と思っていたのでしょうね。とてもありがたいと思っています。最近私は、私の人生は「愛+感謝」だとつくづく思います。愛と感謝は、保護司の仕事や更生保護の活動でも大切なことだと思います。

―― 更生保護についての社会の理解についてはどのようにお考えですか。

茂呂 世の中の理解はまだまだだと思います。保護司は確かに大変な面がありますから、なり手が少なく委嘱も大変なようです。私は保護司を定年した後も、保護司会の活動をバックアップし、地域の中で非行防止や更生保護への理解を広める更生保護女性会(更女)の活動を続けています。更女の全国団体・日本更生保護女性連盟の会長は、同窓の千葉景子さん(元・法相。昭46法)です。千葉さんは弁護士ですが、保護司や更女の仕事は、法律により刑罰が決まった方の、その先の更生を見守る仕事です。法律を学ぶ学生に対しても法律では割り切れない生き方もある、法律の先でうごめいている人たちがいる、ということを中央大学で教えてもよいのではないでしょうか。全国の学員にも保護司や更女活動に関わっている方がいます。ぜひ、更生保護への理解が広まってほしいと思います。

茂呂先輩のように歩みたい

茂呂氏と同じ保護司を務める渡辺副会長に、本インタビューについてコメントを寄せていただいた。

渡辺紀久子氏

学員会副会長
渡辺 紀久子(昭42商)

 茂呂先輩のお話をお聴きして、保護司を27年間務めてきた私と沢山の共通項があるなと思いました。父母会々長・婦人会々長・ガールスカウトのリーダー・更生保護女性会を通じての社会貢献と私も同じようなことをしてきました。
 しかし決定的に異なるのは、ぬくぬくと育った私と違って茂呂先輩は、苦労されながら大学に通われたことではないでしょうか。
 さまざまな社会体験をされた先輩だからこそ、対象者に寄り添った保護司の活動がお出来になられたのだと思います。

 昨年滋賀の保護司が殺された事件以来、保護司のなり手が今まで以上に減少しているとのことです。茂呂先輩のように90歳になられた現在も、かくしゃくとして愛情をもって社会貢献をしておられるお姿は、人生100年時代の良きお手本だと思います。先輩のように更生保護への理解が広まるような歩みを、私も続けられるよう頑張っていきたいと思います。

白門人
茂呂絹枝氏

(昭32経)
茂呂 絹枝 氏
元・東京更生保護女性連盟会長

もろ・きぬえ
昭和9(1934)年、栃木県那須郡生まれ。作新学院高校出身。昭和56(1981)年に保護司に委嘱され定年(75歳)まで務める。元・東京更生保護女性連盟会長、元・東京保護司選考会委員、元・墨田区保護司会会長。

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