監督・部長・コーチが中大 「王道を行け」の教えで甲子園へ

白門人(はくもんびと)インタビュー

各界で活躍する「白門人インタビュー」として、今回は高校野球指導者に登場していただいた。春・夏の甲子園出場14回という関東第一高等学校(東京・江戸川区。乙幡和弘校長)野球部は、監督・部長・コーチの3人が中央大学硬式野球部OB。甲子園常連校に白門DNAはどう活かされているのか。3人の生徒指導の考え方や思いを伺った。

白門の高校野球指導者がそろう

―― 甲子園出場校で監督・部長・コーチ3人が中大出身と話題になりました。まず3人が関東一高野球部の指導者になった経緯から教えてください。

米澤 中大卒業時に宮井勝成総監督の勧めで社会人野球のシダックスに進みました。2年やった後、母校の関東一高に来ました。私は江戸川区の出身ですから、子供の頃から知っている学校で、甲子園に行きたくて入りました。ただ、私が監督になった頃は、甲子園から遠ざかっていた時期です。前任の監督さんも一生懸命されていましたし、選手も頑張っていましたが、なかなか勝てない。甲子園も3年出られないと勝ち方がわからなくなるというか、勝負事というのはそういうところがあります。ほんのちょっとの運が拾えないというか。それが平成16(2004)年に共学になり、新しい寮ができた頃から変わってきました。当時の寮長が年齢的なことで退職したので、社会人で監督をやっていて野球指導ができる中大野球部同期の臼井に来てもらいました。そして翌年、監督就任から8年かかって甲子園に行き、その後は現在のように毎年、出場をうかがうところまでは行けるようになっています。

臼井 私はもともと高校野球の指導者になりたいと思っていました。社会人野球を10年やって、これからどうしようかと考えていた時、米澤から声をかけてもらいました。ありがたかったですね。実は、私の父も高校野球の指導者をしていました。父は教員ではなかったので、教師の
立場での指導の大切さをよく言っていて、それができないことに歯がゆさを感じていました。私はそれを身近で見ていましたが、大学に入っても大変だからと
教職は取りませんでした。この学校に呼んでもらってから、野球の指導もしつつ、3年かかって教員免許を取得しました。35歳の時です。授業を受け持ち、野球の指導にもあたるということは、当初の想定以上に大変ではありますが、米澤を少しでも助けられればと頑張っています。

那賀 高校時代の私はプロ野球選手を目指していましたが、高校野球の指導者ももう一つの志望でした。中大で教職を取り、いずれは故郷の九州に帰って教えようと思っていますが、その前に関東の強豪校の野球を知っておこうと、野球部の清水達也監督に相談したところ、先輩2人がいるこの学校を紹介していただきました。教師としても勤務しています。本校に来て、その練習方法には衝撃を受けました。私がいた県立高校とは全然違う。目に見える以外のところも徹底して指導し、走塁やポジショニングにしても細かなこだわりがある。さすが甲子園を目指す学校という感じでした。

高校卒業後も野球を続けてほしい

―― 指導にあたって留意していることはどのようなことですか。

米澤 私達の高校時代とは環境が大きく違います。今も昔も子ども達は頑張っていますが、もしかしたら、今の子ども達の方が、いろいろな意味で窮屈な中にいるのかもしれません。何かあると取り返しがつかなくなるということが、今の方が多いのではないかと思います。そうならないために指導するということが大事です。

那賀  指導をしていても、素直な子が多いですね。また、監督との距離感も近いというか、質問がある生徒は気楽に監督に聞いてくる。もっともこれは、本校だけ、米澤監督だからということかもしれませんが。

臼井 甲子園を目指す野球をやっていても、その後の選択肢は増えていますね。野球を生かさずに一般受験をする子もいます。本校のスポーツコースだと、カリキュラムの関係で一般受験は厳しいのですが、浪人しても行きたい大学に進みたいという生徒もいますから、その支援もします。

米澤 私はこうなりたいのでこう進みたいと、明確に夢を持っている子も多いですね。それはいいことだと思います。大学では野球ではなくアメフトをやりたいという子も多い。進みたいという目標に応じて、こういう大学があるとか、こういう道があるとか指導したりします。野球では、私がピッチャー、キャッチャーや打撃などを中心に指導し、臼井が内野の守備などを見てくれていますが、野球以外の指導でも、お互いの立場や経験などをもとに指導しています。臼井は社会人で監督をしてきているので、監督の気持ちを理解し、配慮してくれますからね。

臼井 監督が怒ったら、逆に私は怒らないようにするとか、そんな役割みたいなものはあるかもしれませんね(笑)

那賀 お二人の関係は、側で見ていても仲の良さが伝わってくるので、とても羨ましく感じています。

米澤 今、最大の目標は全国制覇です。本校は来年100周年なので、未達成の全国制覇を成し遂げたい。ただそれだけでなく、勝つことを目指して頑張るけれど、高校を卒業しても野球を続ける子を1人でも多くしたいというのも、もう一つの願いです。1人でも多くの生徒が、大学でも野球をやりたいと言ってくれればと思っています。

臼井 大学に進む生徒の進路としては、OBとしては中大野球部に進んでもらいたいのですが、なかなか難関です。私達の時は東都2部リーグでした。米澤はキャプテンで苦労したとは思いますが、チャレンジする側でした。今の中大は1部にずっといなければいけないというプレッシャーは相当のものがあると思います。これまでも教え子の何人かが入学し、今年も神宮で頑張っています。

米澤 私は高校の時に宮井総監督にお誘いを受けましたが、とても名誉に感じました。今も、中大野球部に入れることは、高校球児にとって名誉であることは変わらないと思いますよ。

名将・宮井総監督の教えが基本

―― 自身が指導者から受けたことは、今の指導に影響を与えていますか。

米澤 大学に限らず、中学、高校、そして社会人と、指導者から受ける影響は、やはり大きいと思います。正直、高校野球ではシビアに結果を求められる部分もあります。ただし、高校野球の指導は、野球だけでなく、人を育てることでなければならない。指導者になって思うのは、もちろん勝つことができれば一番いいのですが、たとえ負けたとしても、生徒達の中に何かをしっかり残してあげなければいけない。それは多分、私自身がかつての指導者達から受けた影響だと思います。特に私の人生の大きな部分を決めた宮井総監督には感謝しています。

那賀 私が中大で4年生の時に宮井総監督が亡くなられたのですが、お話を伺う機会は何度もありましたから、その言葉は聞いています。清水監督からも卒業する時に「王道で行け」 とお言葉をもらいました。“中央”大学なのだから、道の真ん中を行け。そんな生き方をしていきなさい、と。

臼井 野球であれば、迷ったら真ん中で勝負しろとか、バッティングも迷ったらスクイズじゃなく行けよ、とかいろいろ解釈はあるかもしれませんが、私は「王道で行け」を生き方の基本に、生徒達に接しています。

白門人
関東第一高等学校野球部 監督/部長/コーチ

(平10商)
米澤 貴光 氏
関東第一高等学校野球部 監督

関東一高から中大に進学し、4年時には主将を務める。卒業後は、社会人野球チーム・シダックス(東京)に入団。平成12(2000)年から関東一高の監督に就任。平成20年には21年ぶりに選抜高校野球へと導き、その後、春夏10回の甲子園出場を果たしている。

(平10文)
臼井 健太郎 氏
関東第一高等学校野球部 部長

宮崎県立延岡西高から中大へ。卒業後は、社会人野球チーム・ワイテック(広島)に入団。内野手として7年、監督として3年活躍。大学同期の米澤氏の招聘で、平成19(2007)年春に関東一高の寮長として着任。現在は同校教諭。

(令3商)
那賀 一球 氏
関東第一高等学校野球部 コーチ

大分県立臼杵高では強打の遊撃手としてドラフト候補。中大に進学し在学中は野球部員として活躍する一方、教員免許も取得。卒業後は関東一高の常勤講師となる。弟は中大硬式野球部1年の那賀球道選手。

関東第一高等学校

学校法人守屋育英学園(渋谷実理事長=昭61経)。大正14(1925)年に関東商業学校として、当時中央大学があった神田錦町で男子校として設立。創立者の一人は帝国書院の創立者でもある。昭和14(1939)年に現在地の江戸川区に移転。昭和48(1973)年に現校名とし平成16(2004)年から共学化。スポーツが盛んでプロ野球以外にもサッカー、バドミントン、格闘技で有名選手を多数輩出。

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