白門人(はくもんびと)インタビュー
各界で活躍する“白門人”インタビューの第2回目は、児童福祉の世界で活躍する橋本達昌氏に登場していただきました。
学生時代のサークル活動が財産
――まず学生時代、そして就職してから福祉の仕事に就くまでの経緯から教えていただけますか。
橋本 学生時代は授業にも出ずに、辞達学会(弁論部)の部室に入り浸っていました。そこで仲間とただ話をしているだけなのに、それがたまらなく楽しくて。今から思うと、それを自由と履き違えていたかもしれませんね(笑)。でも辞達で学んだことはすごく財産になっています。私はディベート局長で、ディベートというとよく相手を論破するものと思われがちですが、実は相手の話をどれだけ丁寧に受け止められるかが重要で、それに対して自分の論を一つ一つ的確に返していく。その受け止め方がディベート力。そう学びました。これは社会人になって福祉の現場でも、会議の席などでもとても役に立っています。辞達は癖の強い人が多かったし、一人一人がそれぞれの主張を持っていたから、話を聞いているだけで面白かったですね。
そんな学生生活を過ごして、特に何かやりたいことがあったわけでもなく郷里の福井県に戻って武生市役所へ入りました。まず納税課に配属されましたが、お金がない人から無理やり徴税するのはしんどかったですね。2年目に市の職員組合に参加し、オルグ活動でさまざまな職場に出向いて、その中の一つが市直営の児童養護施設でした。そこで高校受験の子たちのための「家庭教師募集」の貼り紙を見て、今でいう学習支援のボランティアとして施設に通うようになりました。楽しかったんです、教えるのが。それで自己申告書に児童養護施設への異動希望を書いて、5 年目に施設へ。実際に子どもたちと接してみて施設で暮らす子どもたちはいろいろな面で辛いなというのをすごく感じました。部屋も3〜4人の相部屋、大食堂での一斉の食事、6〜7人が一緒に入浴する大風呂。食事だって好きなものが食べられるとは限らない。たくさんの制限の中で生活をしている。子どもたちは皆、虐待や貧困など家庭の事情で施設に来たわけで、何も悪くないのに。それってある意味、すごい差別だなと感じたことがあって、そういう子たちのために児童福祉を生涯の仕事にしていこうという気持ちが自然に生まれました。
施設運営を官から民へ
橋本 施設から本庁に戻った際の配属も児童福祉課でした。平成の市町村合併(平成17(2005)年10月)で越前市となりましたが、それ以前の武生市にあった市立の児童養護施設と児童家庭支援センターを廃止して、子どもたちを他の施設へ分散させるという案が出たんです。そうなると子どもたちはせっかく馴染んだ施設を出なければならないわけで、これも大人の都合です。「それはおかしい!」と職員たちからも声が上がり施設で働く臨時・非常勤職員が自分たちで法人を設立して、子どもたちをこのまま同じ場所で見ていこうと決めました。
市の職員組合の支援ももらい資金集めからスタートしました。このとき地元紙が、「市立でも私立でもない市民立の児童養護施設ができようとしている」と書いてくれたおかげで大きな力を得て、平成18(2006)年に市から施設とセンターの運営を引き継いだわけです。自分のお金をポンと出してくれた市の幹部もいました。私は当初は市からの出向という形で施設で働いていましたが、平成21(2009)年に市役所を退職して社会福祉法人の職員になりました。
――よく市役所を退職するという選択ができましたね。
橋本 安定している公務員を辞めて福祉の道を選ぶというと、なんだかかっこいい話のように思えるかもしれませんが、現実には悩む間もなく、後戻りもできず、やるしかなかった。施設の子どもたちをバラバラにしたくなかった。設立した社会福祉法人で小規模ケアへの移行も目指していましたからね。ただ、かつて市役所に勤めていたし、他の仲間も市の嘱託だったりしたので、私たちは民間の社会福祉法人ですが市とすごく連携が取れています。そこはありがたいですね。
築40年超の施設の老朽化の問題があったので資金を集めて、試行錯誤しながらも平成23(2011)年に場所も移動して新しく小規模ケアを作りました。一般の家屋に近い居住空間を備えた建物です。どうせ作るなら子どもたちのためにも理想の、最先端の施設にしようと、原則個室を実現しました。その後の全国の児童養護施設のモデルにもなりました。新しい施設ができたとき、最初の挨拶で「こんな素晴らしい建物ができて本当にありがたいと思う。だけど私たち職員は、この施設に子どもたちが一人もいなくなることを目標にしよう」と話しました。
今、施設に入所してくる子は、親(養育者)の疾病や貧困、虐待など、大人の事情でやってくる子がほとんどですが、引きこもり、不登校など現代の子ども社会の難しさも関連してあります。私たち施設の職員は日々子どもたちと接しているため、子どもたちとの接し方のノウハウをたくさん持っていますので、そのノウハウを地域の在宅支援に展開しよう、児童養護施設に来る前の段階にアプローチしよう、と。
そのために「児童家庭支援センター」を附置し、その後、まだ保育園に入る前に親子で遊びに行くことができる場所として「子育て支援センター」も作りました。簡単にいうと、「“施設の中だけで子どもを護っていく”姿勢から“地域のみんなで子どもを育もう”とする姿勢」への大転換です。地域の中で施設の養育機能を最大限に生かしていくということです。
地域の中で親を支えて子育てを応援して、子どもが地域で育っていく。親子が分離されないように家族全体の支援をしていこうというのが、これまでの社会的養護を超えた社会的養育の発想なのです。
「無条件の支援」が大切
――学員会や私たち個人が施設の子どもたちにできることはどんなことでしょう。
橋本 「タイガーマスクのランドセルの贈り物」が話題になった時、私たちの施設にもランドセルがいくつも送られてきました。でも新入生は一人でした。ミスマッチはもったいないので「応援したいけどどんなニーズがありますか」と問い合わせていただけるといいと思います。また、中央大学には社会福祉の学部がないので、児童福祉に興味を持っていただくためにも、たとえば「子どもの貧困・虐待」などの分野の講演会、勉強会などを学員会などで主催してもらうのもいいかもしれません。それから、大学によっては、児童養護施設などの社会的養護出身の子どもの学費免除を導入しているところもあります。
――養護ではなく養育であるなど、施設に入らざるを得ない子どもたちに対する一般の理解をもっと変えていかねばなりませんね。
橋本 子どもたちは18歳になれば施設を出ていきます。その後、進学するにしても就職するにしても、自立して暮らしていかねばなりません。しかし「自立」とは、全部自分でやることではなく、上手く他者に依存できるようになることだと私は思います。見方を変えたら、いろいろな人に頼れる力があって、頼れるルートを持っていること。いろいろな人に頼り、いろいろな人に甘えて、きちんと感謝する。そうした人とのつながりや関係性を大事に培っていくことが、結果「自立」につながると、福祉の仕事をしているとすごく感じます。
施設の子には私の学生時代のようなモラトリアムの期間がない。気ままに好きなことをして過ごす時間を持つからこそ、人生の彩りが見えてくるはず。若いうちに迷って、悩んで、揺れることがすごく大事。だから、施設出身の学生には、支援するから何か資格を取れとか条件を付けるのではなく、親が仕送りするような、無条件の支援をしていきたい。
大学を卒業して長年経つと、大学の誇りを肌で感じるのは箱根駅伝です。1 位になって欲しい気持ちはあっても、必死で走って次の走者へタスキをつなぐ姿を見たらもうそれだけで OK って思うじゃないですか。その感覚を私は持ち続けたい。「成果を求める」のではなく、「経過を大事にする」という気持ちこそ、誰を応援するにも大切なことだと思っています。
橋本氏に関する参考情報
「社会的養育ソーシャルワークの道標」
参議院 2022年06月02日 厚生労働委員会 #04 橋本達昌
(参考人 全国児童家庭支援センター協議会会長)- YouTube
NHK 視点・論点「地域で育てる社会的養育への転換を」
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/441021.html
地域で繋がる 地域を紡ぐ 地域に創る
(平2法)
橋本 達昌 氏
全国児童家庭支援センター協議会 会長
はしもと・たつまさ
昭和41(1966)年福井県武生市(現・越前市)出身。全国児童家庭支援センター協議会会長。厚生労働省社会保障審議会社会的養育専門委員会委員など官民の児童福祉、社会福祉関係の要職を務める。近著『社会的養育ソーシャルワークの道標』。