働きながら学ぶ 卒業してから学ぶ

多様な学び

辞達クラブ支部:第二辞達学会(夜間の弁論部)の思い出

 去る3月1日、駿河台キャンパス19 階「Good View Dining」において、学友会文化連盟辞達学会(弁論部)のOB・OG会である学員会辞達クラブ支部(河口洋徳支部長(昭50法))の総会が開催された。総会後のイベントでは、昨年解散した第二辞達学会OB・OG会「のんき会」のメンバーが登壇し「辞達夫婦が語る、第二辞達とのんき会」が催された。
 辞達学会は明治34(1901)年に、本学出身の弁護士で当時教授だった花井卓蔵氏が創設した弁論部で、「辞達」とは『論語』衛霊公第十五にある「子曰、辞達而已矣」からの命名。戦時中の一時期に活動の中止を余儀なくされたものの、120年以上の歴史を持つ中央大学学友会所属部会最古の学生サークルである。戦後、活動を再開する辞達学会の中で、第二予科に所属する学生が中心となって、夜間部の勤労学生の弁論部として発足したのが第二辞達学会である。昭和26(1951)年に学友会の公認団体となり、昭和48(1973)年まで活動が行われ、駿河台校舎閉校の昭和55(1980)年をもって廃部となった。第二辞達のOB・OGにより昭和32(1957)年に設立された「のんき会」は、その後半世紀間にわたり毎年例会等の活動を行ってきた。
 イベントでは、第二辞達学会で知り合い結婚した3組の夫婦(吉川方章・春子夫妻、青木宏之・悦子夫妻、茂呂善一郎・絹枝夫妻)が登壇。学生時代の思い出や現在までの人生、近況などを語った。

吉川春子氏

「女は大学など行かなくていいという家庭で一度は銀行に勤めたが、やはり大学に行こうと、家を出て夜間部に通った」(吉川春子氏(昭39法)。元・参議院議員)
青木悦子氏

「学生運動が盛んな時代だった。卒業して世の中を変えることの難しさを感じ、花の世界に行ったことでその後の国際的な仕事につながった」(青木悦子氏(昭36商))
青木悦子氏

「第二辞達に入部したら印刷会社に勤めているのだからと書面作成をする庶務部長や、会社の資金繰りをしているだろうからと会計を担当させられたりした」(茂呂善一郎氏(昭32法))

白門星友会支部:夜間部時代から難関資格試験合格をめざす会

 学友会学友連盟星友会は弁護士、公認会計士、税理士など難関資格や公務員試験、法9 科大学院合格をめざす学生のサークル。昭和23(1948)年に夜間部学生の研究団体「政治経済研究会」としてスタートしたのが起源。初代会長は本学出身で元法相の稲葉修氏。夜間部に在籍し司法試験、公認会計士試験を合格した学員の多くが所属し、最高裁判事2名、中央大学学長ら大学教授も多数輩出したサークルである。
 多摩移転後に夜間部が廃止された後は昼間部学生も加わり、多摩キャンパスだけでなく、茗荷谷、市ヶ谷の都心キャンパスの学生も所属している。
 同会は年数回あるOB・OG会への参加や法律事務所、会計士事務所、監査法人、最高裁判所等への訪問など、OB・OGと盛んに交流し、密接なつながりのある点が特長。そのOB・OG会が学員会白門星友会支部(荻原大輔支部長(平6経))である。
 去る1月26日、東京・四谷の主婦会館プラザエフにて支部主催で開催された新春祝賀会では、令和6(2024)年度の公認会計士試験と司法試験の合格者と3月卒業予定の現役の星友会所属学生が招待された。
 開会にあたり荻原支部長は「コロナ禍で入学した中で、司法試験や公認会計士試験に合格している学生がいることを嬉しく思い、努力を称えたい」と挨拶。コロナ禍で中断していた現役学生との交流が、学生側からの申し入れで再開したことを紹介した。
 続いて星友会会長で星友会OG の国際経営学部・倉田紀子准教授は「今日参加の学生の中には市ヶ谷の国際情報学部から公認会計士試験に現役合格した人がいる。私のいる国際経営学部ではまだ合格者が出ていないが、新しい学部からの合格者がわが星友会から生まれたことを誇りに思うし、新しい歴史が始まったとも考えている」と挨拶した。

新春祝賀会には公認会計士試験・司法試験の合格者と卒業予定者が参加

新春祝賀会には公認会計士試験・司法試験の合格者と卒業予定者が参加

試験合格学生や卒業生が御礼の挨拶

試験合格学生や卒業生が御礼の挨拶

中央大学夜間部と「星友会」での青春

濱田浩氏

乾 浩
(濱田 浩 昭55法)

 「男児立志出郷関 學若無成死不還 埋骨豈惟墳墓地 人間到處有青山」(男児志を立て郷関を出づ、學もし成らずんば死すとも還らず、骨を埋むに墳墓の地あらんや、人間到る処に青山あり) この七言絶句は、郷里の先学で幕末の勤王僧月性の詩である。
 この詩に詠うように、私も青雲の志を持って上京した。朝8 時から夕方5 時過ぎまで働き、仕事が終わるや否や走って学校に駆けつけた。日が暮れ、多くの夜間学生が集う広い講義室は熱気に溢れていた。だが、2限目の授業辺りから、仕事の疲れが出てきて睡魔が襲ってくる。それに打ち勝とうと頬を叩いたりつねったりするが眠気が取れない。だが、講義が終わってから、2号館4階の「星友会研究室」に行くと、仲間が1人、2人と集まって来て、司法試験や会計士試験の話を始める。先輩たちが解説する法理論や会計実践の演習はほとんど理解できなかったが、不思議と心が落ち着くのである。誰もが、「学問成就という志を立てて郷関を出た」という共通の素地があるからだ。同行の仲間と共に学び、飲み騒いで、友人との絆を深めたところがわれらの「星友会」であった。いわば、青春のオアシスであるとともにかけがえのない生涯の友を作った“学堂”でもあった。

卒業できたのはレポートと教授のおかげ〜夜間部学生の多摩移転

松本祐三氏

松本 祐三(昭57文)

 学費は自分で何とかしなければならない事情があったので、夜間部があるしっかりした大学はないかと選んだのが中大だった。昭和53(1978)年に駿河台で入学。昼間部は多摩に移転していたが、田舎から出て来た間抜けな学生だった私は、駿河台で卒業できるものとばかり思っていた。都内のアパートを借り、昼間は学生課に紹介してもらった文京区内の衣料品メーカーで配送や検品の仕事をして、夕方から駿河台で授業を受ける日々。職場と学校が近いのでわりと真面目に出席していたし、夜間部学生のサークル・学友連盟詩友会の活動もするようになった。それが3年生からは多摩に行くことに。仕事はそのまま続けたが、多摩校舎に通うのは大変。仕事を終えてからでは間に合わない授業もある。4年生になって、先輩から紹介された茅場町の国際物流系の情報代理店で働くことになり、多摩校舎にはほとんどサークルのために通うような感じになった。そんな学生でも卒業し外資系船会社に就職できたのは、私のような者の救済のためにか当時はレポート試験が多かったからだろう。そして、心優しい教授の恩情もあったからだと、40年以上前を思い出し感謝している。

夜間部&通信教育部

 昨年3月、歌手の松田聖子さんが本学法学部を卒業した。芸能活動で断念した大学進学に60歳を前に改めて挑戦し、多忙な中で通信教育課程を卒業したことはマスコミでも大いに話題となった。
 昨今、リカレントやリスキリングの必要性がさかんに語られるようになっているが、さまざまな事情や動機から、働きながら学んだり、卒業後も学び直しに取り組む学員が多数存在する。今号では、かつて夜間部学生も活躍したサークルや通信教育課程のOB・OG会の活動、働きながら学んだ学員の声、卒業してからも学ぼうしている学員たちに向けたリカレントの情報など、多様な学びについて特集した。

信窓会支部:通信教育課程の同窓会

 中央大学法学部通信教育課程の卒業生によって構成される信窓会支部(金子尚道支部長(昭44文・平11法))は、通信教育課程において初めて卒業生が誕生した昭和28(1953)年に発足した。昭和38(1963)年に学員会支部となり現在に至っている。機関紙『信窓会報』『信窓往来』の発行、会員の「学びの継続」のための講演会・研修会、親睦交流を深めるための懇親会などを行っている。直近の活動状況等を、同会の増田剛三幹事長に報告していただいた。

新令和6年度定時総会記念講演会(講師:遠藤研一郎法学部長)会場:66名参加

令和6年度定時総会記念講演会(講師:遠藤研一郎法学部長)会場:66名参加

寄稿『信窓会と「学びの継続」』

全国からオンライン参加可能な講演会も多数開催

増田剛三氏

学員会信窓会支部 幹事長
増田 剛三(平30法)

 中央大学法学部通信教育課程の卒業生総数は、この春の140名を含め、21,083名。その唯一の校友会組織である信窓会は、法曹のほか各種士業、医師・大学教授などの専門職、議員・公務員、会社役員・会社員などあらゆる職種の老若男女を会員として擁する、72
年を超す歴史を持つ学員会支部です。多くの都道府県に独自の分会を設け、会報発行、講演会、懇親会、在学生支援その他の活動を全国各地で展開しています。
 なかでも、「学びの継続」のための講演会は、会場参加とオンライン参加を選択可能なハイフレックス型のものを含め年間10 回以上開催し、卒業生はもちろん、在学生も全国各地から参加しています。また、在学生が運営し卒業生が支援する学生会支部もハイフレックス型の学習会やオンライン学習会を開催しており、卒業生も参加しています。これらのオンライン参加が可能な「学びの継続」の機会は、年間100 回を超える見込みです。
 最近では、中央大学の他学部を卒業された社会人の方が法学部通信教育課程に入学されるケースも増えており、卒業後信窓会へ入会される方も見られるようになりました。
 今後とも、会員相互の親睦交流を図り、中央大学の興隆に寄与するとともに、現在そして将来の会員の皆さまの「学びの継続」のため、積極的に活動を展開してまいります。ご期待ください。

令和6年度定時総会記念講演会

令和6年度定時総会記念講演会(講師:遠藤研一郎法学部長)オンライン:39名参加。写真はオンライン配信画面

自校史(紀伝)「中央大学の社会人教育の伝統」

スタートは夜間部だった!?

 創立125周年を前にした『Hakumon ちゅうおう(2009年秋季特別号)』に掲載された「中央大学と近現代の日本~菅原彬州教授/本間修平教授/有澤秀重准教授に聞く」には、「【菅原教授】中央大学の伝統は夜間部なんです。つい最近まで、夜間部の出身者が社会で広く活躍していたというのが中央大学の特色です。【有澤准教授】ある意味、社会人教育なんですよ。」というやり取りがある。
 中央大学の前身である英吉利法律学校は、明治18(1885)年9月10日に旧旗本屋敷を利用して開校した。当時の授業は夕方から行われ、午後3時や4時頃に始まった。受講者の多くは仕事を持つ社会人や役所勤めの若者であり、日中は働きながら夕方に学ぶ形態を取っていた。一方、教員も他大学での講義を終えてから英吉利法律学校に来て授業を行っていた。そのことから、夜間部は中央大学の特徴的な存在であるというのが、中央大学史に詳しい先生方の鼎談で述べられているわけだ。
 この後、正式に「夜間部」が発足するのは、昭和6(1931)年に認可された第二予科で、修学年限は2 年とされた。戦後、新制大学となった後も引き継がれ、文系学部の多摩移転が決定した昭和48(1973)年時点では、夜間部は駿河台に残す方針だった。しかし、移転費用捻出等の問題で駿河台校地の売却が決まり、昭和55(1980)年の駿河台校舎閉鎖とともに文系夜間部は多摩に移転した。八王子移転はいわゆる「勤労学生」の多くにとっては不便だった。そして、社会状況から夜間部の存在意義は希薄になったという判断もあり、平成19(2007)年に後楽園に残っていた理工学部と法・経・商学部の夜間部は廃止され、翌年、文学部の夜間部も廃止された。

創立とともに始まった通信教育

 前出の鼎談では、通信教育についても語られている。開学当時の日本では学費を用意できる人が少なく、それでも勉強したいという意欲を持つ人が数多くいた。このため、学校創立と同時に「校外生制度」という通信教育が開始された。「【菅原教授】英吉利法律学校創立と同時に始まったんです。講義録を頒布するんですよ。先生が話した内容をまとめて、冊子にして郵送するわけです。【本間教授】明治2(1887)年の中央大学の報告書の中には、校外生は1年次575名、2年次711名、3年次441名となっているんです。」
 郵便制度を所管する逓信省が設置されたのが明治18(1885)年だったことからも、本学創立時の進取性が際立つ自校史のエピソードである。
 現在の法学部通信教育課程は、新制大学の法学部が発足した昭和24(1949)年に通信教育部から法学部付設通信教育課程となった。戦後の混乱がまだ続いていた時期ではあったが、人々の向学心は高く、開講初年度の入学者は4,500人にも上っていた。
 通信教育課程の面接指導・面接授業であるスクーリングは昭和24(1949)年から駿河台校舎でスタートしているが、昭和55(1980)年の駿河台校舎閉鎖とともに多摩での実施となった。その後、平成15(2003)年にリアルタイム型メディア授業(現・リアルタイムスクーリング)、平成17(2005)年にオンデマンド型メディア授業(現・オンデマンドスクーリング)、令和2(2020)年にオンラインスクーリングが開講。そして、令和5(2023)年、法学部の茗荷谷キャンパス移転後は、通信教育課程のスクーリングや科目試験も同キャンパスで実施されるようになった。

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