副会長座談会 No.4
卒業から50年
それぞれができる学員会活動を
今年、卒業50周年を迎えた昭和48年卒業の二人の副会長に、50年前の中央大学、とりわけ駿河台界隈の様子や、これからの大学への思い、学員会(同窓会)活動について語っていただいた。

植野妙実子 氏(昭48法)

小田原眞人 氏(昭48経)
入学式は8月に開催 正規授業がなく自主ゼミで勉強
――昭和48年卒の皆さんの入試、入学は昭和44年。東大入試がなく、東大をめざしていた受験生たちの多くが他の大学に流れた年と聞いています。大学紛争の影響は大きかったのでしょうか。
植野 当時は高校生でも、学生運動の影響を受けていた生徒が多くて、私の同級生にもそのまま大学で学生運動に関わり逮捕された人もいました。私は法学部志望で、とにかく中大に入りたいと思っていました。試験の前に駿河台に下見に行くと、バリケードの向こうの赤いヘルメットを被った学生が「俺たちのところに来いよ」って(笑)。試験は確か、我孫子の中央学院大で受けました。雪が降って大変だったです。
小田原 中央学院大って、姉妹校かなんかだと思っていましたね。それで合格したけど、入学式は8月。秋になるまで正規の授業がなかった。
植野 私たちは事務から名簿をもらって自主ゼミをやったんですよ。白十字という喫茶店に先生を呼んで教えていただきました。
小田原 私のところにも大学から電話がかかってきて「どうしていますか」って。どうしていますかもないとは思いましたが、「なにか講義やってもらえますか」と言ったら、経済学を先生が教えてくれると。でも、その講義はとっても難しくて、だんだん人数が減っちゃった。
植野 学校に入れない、授業はない、で、みんな勉強したくてウズウズしていましたね。その分クラスの結束は固くて、自主ゼミや合宿もやりました。
植野 当時は高校生でも、学生運動の影響を受けていた生徒が多くて、私の同級生にもそのまま大学で学生運動に関わり逮捕された人もいました。私は法学部志望で、とにかく中大に入りたいと思っていました。試験の前に駿河台に下見に行くと、バリケードの向こうの赤いヘルメットを被った学生が「俺たちのところに来いよ」って(笑)。試験は確か、我孫子の中央学院大で受けました。雪が降って大変だったです。
小田原 中央学院大って、姉妹校かなんかだと思っていましたね。それで合格したけど、入学式は8月。秋になるまで正規の授業がなかった。
植野 私たちは事務から名簿をもらって自主ゼミをやったんですよ。白十字という喫茶店に先生を呼んで教えていただきました。
小田原 私のところにも大学から電話がかかってきて「どうしていますか」って。どうしていますかもないとは思いましたが、「なにか講義やってもらえますか」と言ったら、経済学を先生が教えてくれると。でも、その講義はとっても難しくて、だんだん人数が減っちゃった。
植野 学校に入れない、授業はない、で、みんな勉強したくてウズウズしていましたね。その分クラスの結束は固くて、自主ゼミや合宿もやりました。
全学の卒業式は中止 女子トイレ、喫茶店の思い出
小田原 秋からは授業がビッチリ詰まって、3月末ギリギリまでやって2年生になるという感じ。でも、2年になると70年安保闘争が始まって、また授業ができなくなってしまいました。それからは学費値上げ反対とか多摩移転反対とかで大学に入れなくなったり、試験はレポートだったりと、そんな中で我々の年は全学の卒業式は中止。
植野 中庭で学生証と交換で卒業証書をもらったような記憶があります。紛争があっても駿河台の町の人たちは学生に親切でしたよね。機動隊に追われた学生を匿ってくれるラーメン屋さんとか。町も個人店が多くて活気がありました。
小田原 喫茶店が多くてね。よく入り浸っていた「ミロンガ」という店は出版社の人たちが常連で、当時裁判になっていた『チャタレイ夫人の恋人』について論争していたりして。それと、古書店街をブラついたりしていたのが当時の駿河台の思い出かな。
植野 大学は女子学生がとても少なかったので、私たちはYWCAに行って、他の学科の女子学生と法律や政治、文学の話をしたりして交流していました。当時としては、すごくおしゃれな食堂があって、安くてデザートまでついていて感激しました。
困ったのは、学内に女子トイレがないこと。一番奥のところに共用トイレがあったのですが、男子がいない間に利用するみたいな状態。文学部棟に綺麗な女子トイレがあったのですが、そこまで行かなくてはなりませんでした。男子も文学部棟に女子学生を見に行くようなこともありました(笑)。
植野 中庭で学生証と交換で卒業証書をもらったような記憶があります。紛争があっても駿河台の町の人たちは学生に親切でしたよね。機動隊に追われた学生を匿ってくれるラーメン屋さんとか。町も個人店が多くて活気がありました。
小田原 喫茶店が多くてね。よく入り浸っていた「ミロンガ」という店は出版社の人たちが常連で、当時裁判になっていた『チャタレイ夫人の恋人』について論争していたりして。それと、古書店街をブラついたりしていたのが当時の駿河台の思い出かな。
植野 大学は女子学生がとても少なかったので、私たちはYWCAに行って、他の学科の女子学生と法律や政治、文学の話をしたりして交流していました。当時としては、すごくおしゃれな食堂があって、安くてデザートまでついていて感激しました。
困ったのは、学内に女子トイレがないこと。一番奥のところに共用トイレがあったのですが、男子がいない間に利用するみたいな状態。文学部棟に綺麗な女子トイレがあったのですが、そこまで行かなくてはなりませんでした。男子も文学部棟に女子学生を見に行くようなこともありました(笑)。

これからの中大らしさと70代からのOB会活動を考える
――卒業後50年経った現在、母校についての思いやこれからの関わり方について伺いたいのですが。
植野 私たちの卒業当時、多くの企業は4年制大学を出た女子を「使いようがない」と思っていたようです。補助的な事務員や秘書として高卒や短大卒の女性を採り、結婚すれば辞めてもらうという感じ。教員や研究者でも、今では信じられないような女性差別がありました。私自身、助手試験を受けようとしたら「法学部で女性の専任採用は絶対ない」と断言されました。駿河台で大学院に進み、その後多摩に行き、そして後楽園の理工学部で初の女性教員になるわけですが、初日にパンツスーツで教壇に立ったら、女性なんだからスカートをはいて来いと言われたりしました。今も、中大は女性の活用、登用についてはまだまだだと思いますが、それでも以前に比べれば随分良くなっています。
多摩に移転したばかりの頃の私は、移転の諸問題はともかく、新しいキャンパスへの期待がありました。今回、茗荷谷に法学部が移転しましたが、かつての多摩移転の目的は何で、何が良くて何が悪かったのかしっかり総括すべきだと思いますね。
小田原 多摩移転反対闘争で卒業式ができず残念でしたけど、当時から私も移転に反対でした。中大生は苦学生が多くて、喫茶店はもちろん銭湯代を節約して風呂にも行かないような学生もいました。彼らはアルバイトで暮らしていましたから、あんな郊外に行ったら働くところがないじゃないか、と。昼間働いている夜間部の学生が優秀で、彼らが司法試験や公認会計士になっていく。そういうところが中大の良さだと思っていたのですが、多摩に行き夜間部がなくなり、学費も随分高くなったようです。もっとも、過去を振り返るだけでなく、前を向いていかなければならないとも思います。これからどんな大学にしていくのか、大学当局もしっかり考えてもらいたいし、我々OB・学員会も、力になれることはやっていかねばと思います。
植野 中大には中大の特色というか魅力があると思います。私が所属する女性白門会は、「中大には女性だけで構成される同窓会があるのか」と早稲田や慶応の人から羨ましがられます。会では、DVやハラスメントなど今日的問題について、卒業生のエキスパートを講師に呼んでお話を聞いたりしています。中大が多くの女性弁護士を輩出していることなどは、こうしたことを進める上での強みだと思います。ただ時代はどんどん変化しますから、過去の栄光にすがりつくことなく、これからの社会はいったいどうなっていくのか、その社会を見通すような力を教職員など大学の当事者が持てば、学生も育ち、その結果、そうした卒業生たちが社会でさらに活躍すると思います。
同窓会・OB会の活動に参加できるということは幸せなことだと思いますね。まず健康だからこそ、集まりなどに参加できます。それと、経済的にも大きな困難がないということ。まったく余裕がない状態では、参加どころではありませんから。
小田原 学員会の支部活動などでは時間をとられることもありますから、仕事の現役を退いた世代が中心にならざるを得ません。卒業後50年経った我々70代が頑張るということも大事ですし、リタイヤしたからこそ面白いと感じるのではと思います。ただ、社会的、経済的に成功した人ばかりの集まりになってしまうのもどうなのかなと思います。有名人を呼んだ派手なイベントもいいですが、同じ学校を出たという縁で、いろいろな人生を歩んだ人たちが会ってワイワイ喋るとか、お金をかけずみんなで一緒に歩くだけのイベントとか、そんな集まりでもいいのではと私は思います。
植野 私たちの卒業当時、多くの企業は4年制大学を出た女子を「使いようがない」と思っていたようです。補助的な事務員や秘書として高卒や短大卒の女性を採り、結婚すれば辞めてもらうという感じ。教員や研究者でも、今では信じられないような女性差別がありました。私自身、助手試験を受けようとしたら「法学部で女性の専任採用は絶対ない」と断言されました。駿河台で大学院に進み、その後多摩に行き、そして後楽園の理工学部で初の女性教員になるわけですが、初日にパンツスーツで教壇に立ったら、女性なんだからスカートをはいて来いと言われたりしました。今も、中大は女性の活用、登用についてはまだまだだと思いますが、それでも以前に比べれば随分良くなっています。
多摩に移転したばかりの頃の私は、移転の諸問題はともかく、新しいキャンパスへの期待がありました。今回、茗荷谷に法学部が移転しましたが、かつての多摩移転の目的は何で、何が良くて何が悪かったのかしっかり総括すべきだと思いますね。
小田原 多摩移転反対闘争で卒業式ができず残念でしたけど、当時から私も移転に反対でした。中大生は苦学生が多くて、喫茶店はもちろん銭湯代を節約して風呂にも行かないような学生もいました。彼らはアルバイトで暮らしていましたから、あんな郊外に行ったら働くところがないじゃないか、と。昼間働いている夜間部の学生が優秀で、彼らが司法試験や公認会計士になっていく。そういうところが中大の良さだと思っていたのですが、多摩に行き夜間部がなくなり、学費も随分高くなったようです。もっとも、過去を振り返るだけでなく、前を向いていかなければならないとも思います。これからどんな大学にしていくのか、大学当局もしっかり考えてもらいたいし、我々OB・学員会も、力になれることはやっていかねばと思います。
植野 中大には中大の特色というか魅力があると思います。私が所属する女性白門会は、「中大には女性だけで構成される同窓会があるのか」と早稲田や慶応の人から羨ましがられます。会では、DVやハラスメントなど今日的問題について、卒業生のエキスパートを講師に呼んでお話を聞いたりしています。中大が多くの女性弁護士を輩出していることなどは、こうしたことを進める上での強みだと思います。ただ時代はどんどん変化しますから、過去の栄光にすがりつくことなく、これからの社会はいったいどうなっていくのか、その社会を見通すような力を教職員など大学の当事者が持てば、学生も育ち、その結果、そうした卒業生たちが社会でさらに活躍すると思います。
同窓会・OB会の活動に参加できるということは幸せなことだと思いますね。まず健康だからこそ、集まりなどに参加できます。それと、経済的にも大きな困難がないということ。まったく余裕がない状態では、参加どころではありませんから。
小田原 学員会の支部活動などでは時間をとられることもありますから、仕事の現役を退いた世代が中心にならざるを得ません。卒業後50年経った我々70代が頑張るということも大事ですし、リタイヤしたからこそ面白いと感じるのではと思います。ただ、社会的、経済的に成功した人ばかりの集まりになってしまうのもどうなのかなと思います。有名人を呼んだ派手なイベントもいいですが、同じ学校を出たという縁で、いろいろな人生を歩んだ人たちが会ってワイワイ喋るとか、お金をかけずみんなで一緒に歩くだけのイベントとか、そんな集まりでもいいのではと私は思います。
自校史(紀伝)③「卒業式中止とホームカミングデー」
戦争・紛争・震災・コロナ
中央大学の卒業式は、過去、戦時下も含め何回か中止されたことがある。戦後、全学式典としての卒業式が中止となったのは、大学紛争による昭和44(1969)年、45(1970)年、46(1971)年と、東日本大震災が発生した平成23(2011)年。そして、コロナ禍による令和2(2020)年である。令和2年は総代への学位記(卒業証書)授与と式辞等がインターネット配信された。記事にある48(1973)年も全学での式典はなかったが、記録では「学部別に挙行」され、各学部ごとに学位記の授与などが行われた。なお、この年から学位記はブック形式となる。
よみがえる卒業式
平成2(1990)年3月、44年・45年卒を対象とした「よみがえる卒業式」が開かれ、平成7(1995)年10月のホームカミングデーでは、「昭和19・20年予科・専門部・学部合同卒業式」が開催されている。また、平成28(2016)年のホームカミングデーでは、東日本大震災で卒業式が中止された2010年度生(平成23年卒)の卒業記念式典とパーティが開催されている。
《参考》中央大学年表(年表データベース)/中央大学広報室大学史資料課