中央大学
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赤い襷は
走り続ける

2024年1月10日更新

【自校史】中央大学と箱根駅伝

 100回を迎えた箱根駅伝。出場回数、優勝回数ともに第1位の本学・中央大学だが、その赤い襷は先頭を快走したこともあれば、大きく遅れ辛い走りを続けたこともあった。そんな中央大学と箱根駅伝の100年をまとめた。

中央大学の参加は第2回から

 日本で初めての駅伝は大正6(1917)年の「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」とされている。マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いから発案された、京都三条大橋と東京・上野不忍池間516キロを23区間に分け、3日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだった。
 この成功をもとに、金栗らは大学や師範学校、専門学校に呼びかけ東京箱根間の駅伝競走を企画した。そして早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学、東京高等師範(現・筑波大学)の参加による「四大校駅伝競走」が大正9(1920)年2月14日に開催された。これが記念すべき箱根駅伝の第1回目である。
 本学・中央大学の初参加は翌年からとなる。当時は各大学とも学生数が少なく、駅伝を走り切る選手10名を集めることは至難だった。本学が初回に参加しなかった理由は不明だが、選手集めが間に合わなかったためかとも想像できる。そしてこの年、中央大学競走部(現・陸上競技部)が創設される。
 大正10(1921)年1月8日・9日に行われた第2回大会は、初回の4校に加え、本学と東京農業大学、法政大学の7校が参加。しかし本学の成績は残念ながら第7位、16時間29分40秒6であった。

初優勝は第7回大会(1926年)

 総合優勝14回の記録を持つ本学の初優勝は、大正15(1926)年1月9日・10日に開催された第7回大会。参加校は本学のほか、3連覇を狙う明治大学、そして東京歯科医専(現・東京歯科大学)、慶應義塾大学、法政大学、東京農業大学、東京帝国大学農学部実科の7校。
 本学は2区から5区まで首位を守り、往路優勝を果たす。復路も6区から9区まで首位で走り続けた。10区の途中で明治大学に抜かれて2位になったが、最後は振り切って首位でゴールした。総合タイムは14時間17分31秒で、2位の明治大学とは41秒差であったが、赤い襷はこれからも走り続ける。

1926_第7回箱根駅伝初優勝記念

第7回箱根駅伝初優勝記念(1926年)

出場97回。無念の棄権、予選会敗退も

 太平洋戦争により昭和19(1944)年から中止された箱根駅伝は昭和22(1947)年に復活。翌年に本学は2度目の優勝を果たす。昭和34(1959)年から39(1964)年までの連続優勝6連覇は、現在も破られていない。直近の総合優勝は平成8(2006)年である(平成13(2001)年に往路優勝)。
 97回の最多出場回数と87回の連続出場記録を誇る本学だが、第1回大会のほかに2回の本選不出場がある。1度目は出場資格をめぐって他大学と意見の対立があり不参加を決めた第5回大会。そして無念の予選会敗退となった第93回大会。前年の予選会で10位の日本大学に44秒及ばず本選出場を逃した。また、昭和55(1980)年の第56回では、走者のエントリーミスが生じ、7区・8区の区間記録、復路と総合の順位、記録が無効となるアクシデントも。棄権は平成25(2013)年第89回大会で一度経験している。

第40回箱根駅伝(1964年)6連覇

第40回箱根駅伝(1964年)6連覇

第72回箱根駅伝(1996年)

第72回箱根駅伝(1996年)

箱根駅伝 中央大学の記録

1位 14回(7 24 26 27 29 31 32 35 36 37 38 39 40 72)
2位 8回(4 8 23 28 33 34 41 99)
3位 14回(6 11 17 20 21 30 63 65 66 67 69 71 76 77)
4位 15回(3 16 22 25 42 43 52 68 70 73 74 75 78 81 86)
5位 7回(13 14 15 19 44 64 79)
6位 8回(12 18 48 49 51 61 87 98)
7位 6回(2 10 50 54 80 84)
8位 8回(9 47 53 58 62 82 83 88)
9位 1回(46)
10位 2回(59 85)
11位 4回(45 57 60 95)
12位 2回(96 97)
13位 1回(55)
15位 3回(90 92 94)
19位 1回(91)
棄権 1回(89)
記録取り消し 1回(56)
落選 1回(93)

箱根駅伝の歴史と本学の記録

100~81回

第100回 令和6年(2024年)

 第100回を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の23校で実施。関東学生連合は廃止された。復路史上最多タイとなる16校が一斉スタート。
 青山学院大学が往復完全優勝。往路と総合とで記録更新。
 大会前には「優勝も狙えるチーム」と言われた本学は、選手多数の体調不良もありシード権外の13位に。
 本学順位:13位(11時間01分58秒)

第99回 令和5年(2023年)

 20校の対抗で開催、駒澤大学が2年ぶり9度目の優勝。史上5校目の大学駅伝三冠を達成した。コロナ禍で規制されていた沿道での応援が3年ぶりに解禁されて、91万人が観戦した。
 本学は58年ぶりに2位となり、完全復活を果たした。(10時間48分53秒)

第98回 令和4年(2022年)

 初出場の駿河台大学を含む20校の対抗で開催。
 青山学院大学が2年ぶり6度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。往路・総合タイムは大会記録を更新した。
 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、前年と同様に沿道での応援を自粛するよう呼びかけた。
 本学順位:6位(10時間55分44秒)10年ぶりにシード権を獲得

第97回 令和3年(2021年)

 20校の対抗で開催、駒澤大学が13年ぶり7度目の優勝。10区での逆転により優勝を果たす。
 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、沿道での応援を自粛するよう呼びかけた。
 本学順位:12位(11時間7分56秒)

第96回 令和2年(2020年)

 20校の対抗で開催、青山学院大学が2年ぶり5度目の優勝。7つの区間において、13選手が区間新記録を出す。
 本学順位:12位(11時間3分39秒)

第95回 平成31年(2019年)

 第95回の記念大会として、シード校10、予選会通過校11、関東インカレ校1、関東学生連合の系23校で開催。東海大学が46回目の出場で初優勝。
 本学順位:11位(11時間10分39秒)

第94回 平成30年(2018年)

 20校の対抗で開催、青山学院大学が4年連続4度目の優勝。初優勝からの4連覇は、第38回の本学以来56年ぶり。総合優勝タイムは10時間57分39秒と、現コースで初めて10時間台を記録した。
 本学順位:15位(11時間19分26秒)

第93回 平成29年(2017年)

 20校の対抗で開催、青山学院大学が3年連続3度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。完全優勝での3連覇は、第18回大会の日本大学以来80年ぶり。大学駅伝の三冠達成は史上4校目だが、完全優勝&三冠達成は史上初。
 本学は予選会で落選し、連続出場記録が87回で途切れた。

第92回 平成28年(2016年)

 初出場の東京国際大学を含む20校の対抗で開催。青山学院大学が2年連続2度目の優勝。第53回大会の日本体育大学以来39年ぶりに、1区から10区まで全ての区間で首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。
 本学順位:15位(11時間21分48秒)

第91回 平成27年(2015年)

 初出場の創価大学を含む20校の対抗で開催。関東学連選抜は関東学生連合に名称を変更し、オープン参加となった。
 青山学院大学が20回目の出場で初優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。
 本学順位:19位(11時間20分51秒)

第90回 平成26年(2014年)

 第90回の記念大会としてシード枠10校、予選会通過枠13校で開催。
 東洋大学が2年ぶり4度目の優勝。を完全優勝で飾る。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。復路成績は記録を更新した。山梨学院大学が途中棄権。
 本学順位:15位(11時間18分43秒)

第89回 平成25年(2013年)

 19校の対抗で開催、日本体育大学が30年ぶり10度目の優勝。
 本学と城西大学は途中棄権。

第88回 平成24年(2012年)

 19校の対抗で開催、東洋大学が2年ぶり3度目の優勝。往路・復路・総合成績の全部門において、記録を更新する完全優勝を成し遂げる。
 本学順位:8位(11時間11分17秒)

第87回 平成23年(2011年)

 19校の対抗で開催、早稲田大学が18年ぶり13度目の優勝。史上3校目となる大学駅伝三冠を達成する。総合成績は10時間59分51秒と、10時間台を記録した。
 本学順位:6位(11時間11分24秒)

第86回 平成22年(2010年)

 19校の対抗で開催、東洋大学が2年連続2度目の優勝。
 本学順位:4位(11時間16分0秒)

第85回 平成21年(2009年)

 第85回の記念大会として、初出場の上武大学を含む23校の対抗で開催。青山学院大学が33年ぶりの出場を果たした一方で、城西大学は途中で棄権した。また、日本体育大学は3位になったものの、選手の不祥事が発覚し、シード権をはく奪された。
 東洋大学が、出場67回目で初優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。
 本学順位:10位(11時間18分33秒)

第84回 平成20年(2008年)

 19校の対抗で開催、駒澤大学が3年ぶり6度目の優勝。関東学連選抜が4位に入った一方で、順天堂大学・大東文化大学・東海大学が途中で棄権した。
 本学順位:7位(11時間16分32秒)

第83回 平成19年(2007年)

 19校の対抗で開催、順天堂大学が6年ぶり11度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。関東学連選抜が正式な参加チームとなった。
 本学順位:8位(11時間18分41秒)

第83回 平成19年(2007年)

 19校の対抗で開催、順天堂大学が6年ぶり11度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。関東学連選抜が正式な参加チームとなった。
 本学順位:8位(11時間18分41秒)

第82回 平成18年(2006年)

 19校の対抗で開催、亜細亜大学が初優勝。1区で9位スタートだったが、9区で首位になり、優勝を果たす。中距離ランナーやマラソンランナーの育成のため、4区が最短区間、5区が最長区間に変更された。
 本学順位:8位(11時間15分2秒)

第81回 平成17年(2005年)

 19校の対抗で開催、駒澤大学が4年連続5度目の優勝。平成初の4連覇となった。予選会での外国人枠が2人までとなり、実際に走るのは1人と定められた。
 本学順位:4位(11時間7分49秒)

80~61回

第80回 平成16年(2004年)

 初出場の城西大学を含む19校の対抗で開催。第80回の記念大会であることから、関東学連選抜ではなく、日本学連選抜がオープン参加した。また、本大会のみ、芦ノ湖畔コースで予選会を実施した。駒澤大学が3年連続4度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。
 本学順位:7位(11時間18分21秒)

第79回 平成15年(2003年)

 関東学連選抜チームのオープン参加を含む19校の対抗で開催、駒澤大学が2年連続3度目の優勝。シード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増やした。また、エントリー人数を16人に増やす、運営管理車を導入するといった大幅な変更があった。
 本学順位:5位(11時間16分27秒)

第78回 平成14年(2002年)

 15校の対抗で開催、駒澤大学が2年ぶり2度目の優勝。法政大学が途中棄権。
 本学順位:4位(11時間12分58秒)

第77回 平成13年(2001年)

 初出場の國學院大學、平成国際大学を含む15校の対抗で開催、順天堂大学が2年ぶり10度目の優勝。大学駅伝三冠は、大東文化大学に次いで史上2校目の達成となった。東海大学が途中棄権。
 本学順位:3位(往路優勝/11時間19分17秒)

第76回 平成12年(2000年)

 15校の対抗で開催。駒澤大学が、出場34年目で初優勝を果たす。往路・復路ともに優勝の完全優勝。
 本学順位:3位(11時間9分58秒)

第75回 平成11年(1999年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が10年ぶり9度目の優勝。10区のコースが日本橋経由に変更される。
 本学順位:4位(11時間17分15秒)

第74回 平成10年(1998年)

 初出場の帝京大学を含む15校の対抗で開催、神奈川大学が2年連続2度目の優勝。往路・復路ともに優勝で、完全優勝を果たす。
 本学順位:4位(11時間10分33秒)

第73回 平成9年(1997年)

 15校の対抗で開催。前年に途中棄権したため、予選会からの出場となった神奈川大学が初優勝。予選会からの出場校の優勝は初めてだった。監督会議にて給水についての議論が交わされ、14キロ過ぎに給水ポイントを設けることになった。
 本学順位:4位(11時間24分32秒)

第72回 平成8年(1996年)

 15校の対抗で開催、本学が32年ぶり14度目の優勝。1区は11位スタートだったが、6区で首位になり、10区まで首位を保ち、優勝を果たす。
 総合タイムは11時間4分15秒、8区の川波貴臣が区間新記録。
 神奈川大学、山梨学院大学が途中棄権。

第71回 平成7年(1995年)

 15校の対抗で開催、山梨学院大学が2年連続3度目の優勝。
 順天堂大学は10区で途中棄権。
 本学順位:3位(復路優勝/総合タイム11時間6分36秒)。8区の榎木和貴が区間新記録

第70回 平成6年(1994年)

 初出場の関東学院大学、中央学院大学を含む20校の対抗で開催。第70回の記念大会として予選通過校を5校増やした他、特例で慶應義塾大学と筑波大学が出場した。
 山梨学院大学が10時間59分13秒と、初の10時間台で2年ぶり2度目の優勝。往路・復路ともに優勝で、完全優勝を果たす。
 本学順位:4位(11時間13分18秒)

第69回 平成5年(1993年)

 15校の対抗で開催、早稲田大学が8年ぶり12度目の優勝。往路・復路ともに優勝の完全優勝を果たす。
 本学順位:3位(11時間14分36秒)。1区の前田了二が区間新記録

第68回 平成4年(1992年)

 15校の対抗で開催、山梨学院大学が初優勝。ケニアからの留学生2人が活躍した。
 本学順位:4位(11時間21分24秒)

第67回 平成3年(1991年)

 15校の対抗で開催、大東文化大学が2年連続4度目の優勝。大東文化大学は、史上初の大学駅伝三冠(箱根駅伝・出雲駅伝・全日本大学駅伝)を達成する。
 本学順位:3位(11時間26分31秒)

第66回 平成2年(1990年)

 15校の対抗で開催、大東文化大学が14年ぶり3度目の優勝。伴走車(監督車)が廃止される。
 本学順位:3位(復路優勝/総合タイム11時間21分0秒)

第65回 昭和64年(1989年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が4年連続8度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。
 山梨学院大学から留学生選手が初めて出場した。日本テレビ、箱根山中の電波障害を克服し、完全生中継を実現した。
 本学順位:3位(11時間26分42秒)

第64回 昭和63年(1988年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が3年連続7度目の優勝。往路・復路ともに優勝で完全優勝を果たす。
 本学順位:5位(11時間30分0秒)

第63回 昭和62年(1987年)

 初出場の山梨学院大学を含む15校の対抗で開催、順天堂大学が2年連続6度目の優勝。
 後援の日本テレビにより生中継で放送される。また、サッポロビールが協賛となる。時間枠を拡大、多くの区間を生中継した。といっても往路は7時55分-10時25分、12時-13時55分。放送は、往路が7時55分~10時25分、12時~13時55分。復路が7時55分~9時25分、12時~13時55分。
 本学順位:3位(11時間18分7秒)6区の黒沢一道が区間新記録

第62回 昭和61年(1986年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が4年ぶり5度目の優勝を果たす。往路5位からの逆転による勝利。
 本学順位:8位(11時間35分7秒)

第61回 昭和60年(1985年)

 15校の対抗で開催、早稲田大学が2年連続11度目の優勝。
 本学順位:6位(11時間31分11秒)

60~41回

第60回 昭和59年(1984年)

 初出場の東京大学を含む20校で開催、早稲田大学が30年ぶり10度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。
 第60回の記念大会として、過去の優勝校を含む20校が出場した。
 本学順位:11位(11時間44分17秒)

第59回 昭和58年(1983年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が3年ぶり9度目の優勝。
 本学順位:10位(11時間45分52秒)

第58回 昭和57年(1982年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が2年連続4度目の優勝を果たす。往路・復路ともに2位での総合優勝。(往路1位は日本体育大学、復路1位は早稲田大学)
 本学順位:8位(11時間50分44秒)

第57回 昭和56年(1981年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が2年ぶり3度目の優勝。
 本学順位:11位(11時間58分14秒)

第56回 昭和55年(1980年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が2年ぶり8度目の優勝。
 本学に走者のエントリーミスが生じ、7区・8区の区間記録、復路と総合の順位、記録が無効となる。(総合タイム12時間19分0秒)

第55回 昭和54年(1979年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が13年ぶり2度目の優勝。
 東京12チャンネル(現・テレビ東京)、で初のテレビ中継。ただしダイジェスト形式で、ゴールだけを生中継した。
 本学順位:13位(12時間5分1秒)

第54回 昭和53年(1978年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が2年連続7度目の優勝。
 本学順位:7位(11時間57分8秒)

第53回 昭和52年(1977年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が4年ぶり6度目の優勝。同校は1区から10区までの全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げた。
 本学順位:8位(11時間52分27秒)

第52回 昭和51年(1976年)

 15校の対抗で開催、大東文化大学が2年連続2度目の優勝。復路スタートにおいて、上位6チームは時差スタート、7位以下は同時スタートが導入された。
 本学順位:4位(11時間52分51秒)

第51回 昭和50年(1975年)

 15校の対抗で開催、大東文化大学が出場8年目の初優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。
 本学順位:6位(11時間46分8秒)

第50回 昭和49年(1974年)

 第50回を記念して、過去の前優勝校を含む20校の対抗で開催、日本大学が6年ぶり12度目の優勝。過去の優勝校5校(東京教育大学・明治大学・早稲田大学・慶應義塾大学・専修大学)が招待参加、残りの6枠は予選通過校とした。
 本学順位:7位(12時間4分12秒)

第49回 昭和48年(1973年)

 初出場の東海大学を含む15校の対抗で開催、日本体育大学が5年連続5度目の優勝。
 本学順位:6位(12時間11分14秒)

第48回 昭和47年(1972年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が4年連続4度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。スタート・ゴールが大手町の読売新聞社前に変更となる(社屋移転のため)。
 本学順位:6位(11時間44分55秒)

第47回 昭和46年(1971年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が3年連続3度目の優勝。シード権枠が9校に変更される。
 本学順位:8位(11時間56分55秒)

第46回 昭和45年(1970年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が2年連続2度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。
 本学順位:9位(12時間2分57秒)

第45回 昭和44年(1969年)

 15校の対抗で開催、日本体育大学が21回目の出場で初優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。
 本学順位:11位(12時間4分51秒)。初めてシード権を逃す。

第44回 昭和43年(1968年)

 初出場の大東文化大学を含む15校の対抗で開催、日本大学が2年連続11度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を果たす。
 本学順位:5位(11時間45分14秒)

第43回 昭和42年(1967年)

 初出場の亜細亜大学、駒澤大学を含む15校の対抗で開催、日本大学が2年ぶり10度目の優勝。同校は1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げた。
 本学順位:4位(11時間41分21秒)

第42回 昭和41年(1966年)

 15校の対抗で開催、順天堂大学が参加9年目の初優勝を果たす。今大会から復路スタートが、午前8時の一斉スタートになった。
 本学順位:4位(11時間38分44秒)

第41回 昭和40年(1965年)

 15校の対抗で開催、日本大学が7年ぶり9度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を成し遂げた。
 本学順位:2位(11時間39分9秒)

40~21回

第40回 昭和39年(1964年)

 立命館大学と福岡大学が第40回記念の招待校として参加して17校の対抗で開催、本学が6年連続13度目の優勝。大会史上初の6連覇を達成する。
 本学の若松軍蔵が最終10区で日大を抜き、総合タイム11時間33分34秒は大会新記録。

第39回 昭和38年(1963年)

 15校の対抗で開催、本学が5年連続12度目の優勝。大会史上初の5連覇を達成する。(総合タイム12時間0分25秒)

第38回 昭和37年(1962年)

 15校の対抗で開催、本学が4年連続11度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。(総合タイム12時間14分5秒)

第37回 昭和36年(1961年)

 初出場の防衛大学校を含む15校の対抗で開催、本学が3年連続10度目の優勝を果たす。

第36回 昭和35年(1960年)

 15校の対抗で開催、本学が2年連続9度目の優勝。総合タイム11時間59分33秒で、初の11時間台を記録する。

第35回 昭和34年(1959年)

 初出場の埼玉大学を含む16校の対抗で開催。予選会で計算ミスにより、埼玉大学と神奈川大学の順位の入れ替わりが発生した。そのため、特例で両校が出場することになり、本大会のみ16校で開催された。
 本学が3年ぶり8度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。(総合タイム12時間1分23秒)

第34回 昭和33年(1958年)

 初出場の順天堂大学を含む15校の対抗で開催、日本大学が2年連続8度目の優勝。横浜市立大学は、9区で途中棄権となった。
 本学順位:2位(12時間16分23秒)

第33回 昭和32年(1957年)

 初出場の国士舘大学を含む15校の対抗で開催、日本大学が14年ぶり7度目の優勝。前回大会の上位10校を予選会免除とする、シード制が導入された。
 本学順位:2位(12時間22分52秒)

第32回 昭和31年(1956年)

 初出場の東京学芸大学を含む15校の対抗で開催。前年11月の予選会では、19校のうち上位15校が本大会の出場権を獲得。下位の4校は、初めての予選会落選となった。
 本学が往路・復路を制し、2年連続7度目の優勝を果たす。(総合タイム12時間4分49秒)

第31回 昭和30年(1955年)1月2日-3日

 15校の対抗で開催。今大会より、大会日程がラジオ局からの要請もあり、大会日程は1月2、3日に固定された。
 本学が2年連続4度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。(総合タイム12時間8分40秒)

第30回 昭和29年(1954年)1月6日-7日

 初出場の横浜市立大学を含む15校の対抗で開催、早稲田大学が2年ぶり9度目の優勝。日本体育大学、法政大学の正規選手が走行不能に陥り、補欠選手による再走を実施した。
 本学順位:3位(12時間27分28秒)

第29回 昭和28年(1953年)1月4日-5日

 NHKラジオで全国放送がスタート。14校の対抗で開催、本学が2年ぶり5度目の優勝。往路・復路ともに首位で、完全優勝を成し遂げる。
 復路は初の5時間台を記録する。(総合タイム12時間3分41秒)

第28回 昭和27年(1952年)1月6日-7日

 初出場の成蹊大学を含む14校の対抗で開催、早稲田大学が18年ぶり8度目の優勝。
 本学順位:2位(往路優勝/総合タイム12時間36分12秒)

第27回 昭和26年(1951年)1月5日-6日

 11校の対抗で開催。昭和13年頃からの「駅伝有害論」の影響で、慶應義塾大学が出場を取りやめる。この主張を掲げた同大は、1951年以降8年間出場しなかった。
本学が2年連続4度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。(総合タイム12時間20分13秒)

第26回 昭和25年(1950年)1月5日-6日

 14校の対抗で開催。前年4月に新制大学が発足したことで、学校名の変更があった。(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)
 本学が2年ぶり3度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げる。(総合タイム12時間35分36秒)

第25回 昭和24年(1949年)1月5日-6日

 初出場の日本体育専門学校(現・日本体育大学)を含む12校の対抗で開催、明治大学が2年ぶり7度目の優勝。神奈川師範学校(現・横浜国立大学)が、大会史上初の途中棄権。
 本学順位:4位(復路優勝/総合タイム14時間14分12秒)

第24回 昭和23年(1948年)1月6日-7日

 12校の対抗で開催。この大会から、スタートとゴールが銀座の読売新聞社前(現・マロニエゲート銀座)になった。
 本学が22年ぶり2度目の優勝。1区から10区まで、全ての区間において首位を保ち、完全優勝を成し遂げた。(総合タイム13時間21分10秒)

昭和19年(1944年) 20年(1945年) 21年(1946年)

 第二次世界大戦の激化、終戦後の混乱により大会中止。

第22回 昭和18年(1943年)1月5日-6日

 関東学生陸上競技連盟と軍部が交渉を重ね、「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」として開催される。靖国神社がスタート・ゴール地点、箱根神社を折り返すというコースだった。ガソリン不足を反映し、自転車による伴走が多かったという。
 初出場の青山学院(現・青山学院大学)を含む11校の対抗で、日本大学が6度目の優勝。
 本学順位:4位(13時間54分46秒)

昭和17年(1942年)

 戦時命令により日本学連が解体される。

第21回 昭和15年(1940年)1月6日-7日

 10校の対抗で開催、日本大学が2年ぶり5度目の優勝。同校は2区のみ2位、他は全て首位を保ち、優勝を果たした。
 本学順位:3位(13時間56分35秒)

20~1回

第20回 昭和14年(1939年)1月7日-8日

 早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学・法政大学が、駅伝有害論を唱えて欠場。10校の対抗で開催し、専修大学が初優勝。
 本学順位:3位(13時間40分19秒)

第19回 昭和13年(1938年)1月8日-9日

 早稲田大学と慶應義塾大学が「駅伝有害論」を唱えて欠場。12校の対抗で開催し、日本大学が4連覇を果たす。駅伝有害論とは、長距離走強化を図る上で、硬い道路を走る駅伝は選手に害を及ぼすという考え。戦後再開された1947年の第23回大会は慶大含め各校が参加したものの、この主張を掲げた同大は、1951年以降も8年間出場しなかった。
 明治大学の選手が資格疑義(二重登録)により失格、2着が取り消しとなり、順位の繰り上げがあった。
 本学順位:5位(14時間01分03秒)

第18回 昭和12年(1937年)1月9日-10日

 14校の対抗で開催し、日本大学が完全優勝。史上初の三連覇を成し遂げた。授与された優勝旗は、後に起きた大戦の混乱で紛失し、現在は竿のみが残っている。
 本学順位:6位(13時間53分32秒)

第17回 昭和11年(1936年)1月4日-5日

 初出場の横浜専門学校(現・神奈川大学)を含む14校の対抗で開催し、日本大学が2年連続の完全優勝。
 本学順位:3位(13時間21分49秒)

第16回 昭和10年(1935年)1月5日-6日

 13校の対抗で開催し、日本大学が出場14年目で初優勝。往路・復路ともに首位で完全優勝を果たす。
 本学順位:4位(13時間25分21秒)

第15回 昭和9年(1934年)1月6日-7日

 初出場の専修大学、立教大学を含む13校の対抗で開催し、早稲田大学が2年連続7度目の優勝。同校は3区から最後まで首位を保って優勝した。
 本学順位:5位(13時間22分26秒)

第14回 昭和8年(1933年)1月7日-8日

 初出場の拓殖大学、東洋大学を含む11校の対抗で開催し、早稲田大学が2年ぶり6度目の優勝。早稲田大学は1区から10区まで、全ての区間において首位で、完全優勝を成し遂げた。また、総合成績12時間47分53秒と、初の12時間台を記録した。
 本学順位:5位(13時間23分03秒)

第13回 昭和7年(1932年)1月9日-10日

 特別招待の関西大学を含む9校の対抗で開催し、慶應義塾大学が参加12年目で初優勝。同校は3位で10区に入り、逆転優勝を果たした。
 本学順位:5位(14時間00分43秒)

第12回 昭和6年(1931年)1月10日-11日

 特別招待の関西大学を含む10校の対抗で開催し、早稲田大学が2年連続5度目の優勝。
 東京文理科大学(東京教育大学の前身、現・筑波大学)と明治大学の正規選手が走行不能に陥り、補欠選手による再走を実施した。
 本学順位:6位(4時間01分35秒)

第11回 昭和5年(1930年)1月10日-11日

 9校の対抗で開催し、早稲田大学が3年ぶり4度目の優勝。日本大学の正規選手が走行不能に陥り、補欠選手による再走を初めて実施した。
 本学順位:3位(13時間46分53秒)

第10回 昭和4年(1929年)1月5日-6日

 9校の対抗で開催し、明治大学が2年連続5度目の優勝。
 本学順位:7位(14時間23分37秒)

第9回 昭和3年(1928年)1月7日-8日

 特別招待の関西大学を含めて10校の対抗で開催し、明治大学が3年ぶり4度目の優勝。明治大学の総合タイムは13時間54分56秒と、初の13時間台を記録した。
 本学順位:8位(14時間35分49秒)

第8回 昭和2年(1927年)4月9日-10日

 前年12月の大正天皇崩御をうけて4月に開催。5校のみの参加であった。早稲田大学が3年ぶり4度目の優勝。往路・復路ともに首位で、初の完全制覇となった。
 本学順位:2位(14時間50分51秒8)

第7回 大正15年(1926年)1月9日-10日

 7校の対抗で開催。本学が初優勝。
 本学は2区から5区まで首位を守り、往路優勝を果たす。復路も6区から9区まで首位で走り続けた。10区の途中で明治大学に抜かれて2位になったが、最後は振り切って首位でゴールした。
(往路優勝/総合タイム14時間17分31秒)

第6回 大正14年(1925年)1月6日-7日

 10校の対抗で開催し、明治大学が2年連続3度目の優勝。
 日本大学が、登録選手とは別人の人力車夫を、選手として走らせたことが大会終了後に発覚。記録が取り消されることはなかったものの、同校は翌年の大会出場を辞退した。
 本学順位:3位(往路優勝/総合タイム14時間39分01秒2)

第5回 大正13年(1924年)1月12日-13日

 9校の対抗で開催し、明治大学が3年ぶり2度目の優勝。
 前年9月に発生した関東大震災で第一京浜が使用不可となり、コースの一部が旧東海道に変更された。この大会で本学は出場資格をめぐり他大学と意見の対立があり、不参加を決めた。

第4回 大正12年(1923年)1月6日-7日

 10校の対抗で開催し、早稲田大学が2年連続で優勝。人力車夫などが大学に在籍しているとして出場するケースがあり、この回から夜間部に在籍する選手は出場禁止とされた。
 本学順位:2位(14時間37分10秒6)

第3回 大正11年(1922年)1月8日-9日

 初出場の東大農学部実科(現・東京農工大学)、日本大学、日本歯科大学を含む10校の対抗で開催。早稲田大学が優勝。
 本学順位:4位(14時間29分46秒)

第2回 大正10年(1921年)1月8日-9日

 初出場の本学と東京農業大学、法政大学を含む7校の対抗で開催し、明治大学が優勝。
 スタート・ゴールは日比谷公園音楽堂前に設けられた。明治大学の総合タイムは14時間39分01秒8と、15時間を切った。
 本学順位:7位(16時間29分40秒6)

第1回 大正9年(1920年)2月14日-15日

 宿駅伝馬制の飛脚をもとに、手紙に見立てた襷を、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根関所)まで、どの大学が一番早く届けて、東京に帰ってくるかという大学対抗戦のイベントとして開催された。午前中は授業を行い午後にスタートしたため、ゴールしたときには夜になっていた。慶應義塾大学、東京高等師範学校(現・:筑波大学)、明治大学。早稲田大学の4校が出場。優勝は、東京高等師範。参加を呼びかけられた多くの大学・旧制専門学校・師範学校は選手を10人そろえられず、参加を断念したという。おそらく本学・中央大学も選手が揃わなかったと想像されるが、この年、中央大学競争部(現・陸上競技部)が創設される。

白門人たちの箱根駅伝(オンライン版)

往路スタート時の応援。内幸町付近

往路スタート時の応援。内幸町付近

強い時も、そうでない時も

『学員時報』令和6(2024)年1月新春号掲載/オンライン版加筆

この年から9年間、予選会応援が続く(平成14(2013)年)

この年から9年間、予選会応援が続く(平成14(2013)年)

 昭和36(1961)年の第35回大会まで箱根の5区と6区では伴走者の並走が許された。多くは母校OBの実業団ランナー。ペースメーカーとなるOBが選手と一丸で戦った歴史が箱根にはある。「私たち中大がいい例ですが、体育会活動をここまで支えてきたのはOBだということを忘れないで」とテレビ解説でも御馴染みだった故・碓井哲雄先輩は自著に残す。箱根100回の歴史は選手たちの歴史に違いないが、伴走する思いで応援し続ける卒業生たちの歴史でもある。
 「正月の楽しみは箱根駅伝」という人も多いだろう。昭和64年(1989年)からのテレビ完全生中継の開始以降、全国の多くの学員が箱根駅伝のレース展開をリアルに観戦できるようになった。それでも、走り抜ける選手たちを間近に見て、直接声をかける沿道観戦を毎年行っている「白門人(はくもんびと)」も少なくない。
 箱根駅伝100年の歴史にあって、中央大学は最多出場・97回、最多優勝14回をはじめ数々の記録を持っている。しかし一方で、予選会敗退など辛く厳しい時もあった。強い時も、そうでない時も、沿道やテレビ中継で変わらぬ声援を贈り続ける、それが白門人(はくもんびと)だ。

箱根駅伝は運命的な存在

浅香憲一さん(昭39商)

箱根駅伝のタオルを手にする浅香さん。途中棄権の翌年、90回大会のもの。

箱根駅伝のタオルを手にする浅香さん。
途中棄権の翌年、90回大会のもの

 箱根駅伝の沿道観戦には、毎年、コース沿線の地域支部や父母連絡会、学員や家族らが集まるが、地方から応援に駆けつける学員も少なくない。
 今年84 歳を迎える学員会山形支部監事の浅香憲一さんにとって箱根駅伝は運命的な存在だという。学生時代、当時の国立競技場でアルバイトをする中で母校陸上の強さを知った。そして何より、在学4年間は中大黄金期と称される箱根駅伝6連覇中の真っ只中。理屈も何もなく、母校駅伝の魅力に引き込まれ、熱烈なファン・応援者となった。「学内に創設した民俗研究会の活動に夢中で、スポーツとの縁は薄かった私なのに」と、苦笑いしながら在学時を振り返る。
 山形銀行に就職後も熱は冷めるどころか高まるばかり。退職した後も沿道での応援を重ねた。数年前、自作で中大駅伝ガイドを仕上げたところ、微に入り細を穿(うが)った資料が関係者から大好評。以来、毎年更新して応援仲間に配り、喜ばれている。今大会は、復路で同窓生らと小田原中継所で応援の後、急ぎ列車で移動し、ゴール付近へ。「駅伝は多くの人の思いと伝統をたすきで繋いでくれる」と浅香さんと思い入れを語る。
浅香さんが最新資料を切り張りして仲間に配る手製のガイドブック

浅香さんが最新資料を切り張りして仲間に配る手製のガイドブック

青森から本選8回・予選6回応援

鶴岡真治さん(昭56経)

毎年、青森から応援に駆けつける鶴岡さん(駿河台キャンパスにて)

毎年、青森から応援に駆けつける鶴岡さん(駿河台キャンパスにて)

 学員会青森県支部副幹事長の鶴岡真治さん(昭56経)は、ここ10年ほど、支部を代表し箱根本選7回、立川予選会6回、応援に駆けつけている。本選当日は大手町で観戦後、東海道線で追っかけ応援するほどの情熱。「大手町で校歌や応援歌を歌うのはすごく気持ちいいですよ」と。
 「地元では、お正月に同窓会を開催することが多かったのですが、時節柄自然と箱根駅伝の話になりました。また、職場(みちのく銀行)でも駅伝の話になると出身大学の話になります。そうしたことから私の中で中央大学出身者としての誇りが蘇ってきました」と熱心な応援者になったきっかけを振り返る。応援についてもどのようなルートが最適か年々研究を重ねていった。結果、大手町・保土ヶ谷・大磯で観るというスタイルを確立。保土ヶ谷・大磯は共に駅から観戦場所、沿道から選手との距離も近かった。
 沿道で「中央大学青森県支部」の旗を掲げていると、OBや青森県出身者から声をかけられる。「私は中大の旗ってとてもいいと思います。大学名だけでなく、かならず支部が書いてありますから。後輩の皆さんも、見かけたら集まってきてくれるとすごく嬉しいなと思います」。今年はスタートの応援団地点で、青森県五戸町の若宮佳一町長に声掛けされた。実は、町長のお嬢さんが中央大学チアリーディング部に所属しており、ご夫妻で初めて応援に来たとのこと。
 忘れられない思い出は、予選会敗退で不出場となった平成29年(2017年)のこと。青森でやることもなく迎えた正月2日の朝、久野修慈学員会会長から突然の電話。「選手は一生懸命やったが残念だった。来年はまた必ず会おう」と。2024年100回大会の復路、内幸町での応援を終え「今年はまた予選会からの応援だ」と鶴岡さんは呟いた。

大平台ヘアピンカーブのCマーク

学員会48会支部
新倉利明さん(昭48経)
佐藤愛子さん(昭48文)

 テレビ中継でも取り上げられた、大平台ヘアピンカーブに拡げられたCマーク「力、力、中央、中央」の横断幕は、学員会48会支部会員・国領さんの手作りによるもの。新倉利明さんによれば、「48会支部が設立された25年前に、以前から個人で行っていた応援に支部の仲間を誘った」のが支部での応援の始まり。その後「他支部学員の方にも応援ポイントとして認知されていったようです」。
 48会幹事長の佐藤愛子さんは、四半世紀にわたる会の応援を次のように振り返る。
 「48会新倉応援団長のお誘いを機に箱根駅伝5区で応援に初参加。翌年には当時2年生の藤原正和選手(現・駅伝監督)が往路優勝を決めてから、大平台に集結する会員が年々増え、5区6区で30名程の48大応援団になりました。箱根の山に雪が降っても、寒さにめげずに、朝早くから横断幕を広げ、毎年、地元中大ファンを巻き込んで現地で声援を送り続ける姿は、TVにも取り上げられて注目を集めるようになりました。四半世紀に渡る箱根での応援ばかりでなく、出雲や伊勢への遠征や、立川予選会にも復活を信じて通い続けてきました。第100回記念大会は、藤原監督のもと、優勝候補としての出場することの巡り合わせに感無量です」

大平台で応援の準備をする43会応援団

大平台で応援の準備をする43会応援団

箱根支援で大学のブランディングに貢献

箱根駅伝を強くする会

「箱根駅伝を強くする会」(中村重郎会長)はOBによる有志の応援団で、現在970名が会員となっている。

令和5年度総会

令和5年度総会

令和5年度懇親会

令和5年度懇親会

箱根駅伝の広告効果に着目
親子2代で箱根を支援する澤幡さん

親子2代で箱根を支援する澤幡さん

 30年以上にわたり中央大学駅伝チームを支援する「箱根駅伝を強くする会」(中村重郎会長)はOBによる有志の応援団で、現在970名が会員となっている。幹事長の前島一夫さん(昭35経)によれば、「30年以上前、各大学が箱根駅伝に力を入れ始めた頃に、当時そごうの社長で、中大や東洋大で教鞭を執ったこともある水島廣雄さん(昭11法)が『箱根駅伝での注目は世間の大学の評価を高める』と仰ったのがはじまり」で、水島氏の教え子の29 年卒の学員や経済人のOB会・南甲倶楽部の会員らが中心となって設立された。学生時代からこの会を手伝っていた澤幡淳さん(平2法)によれば、「“中大愛”の強い父(澤幡仁さん。昭32経)は、箱根駅伝の絶大な広告効果を知り会の発足に参加した。当時の大学当局は『運動部支援は均等に』が大勢で箱根支援の意義に理解がないと嘆いたが、会としてお金を集め応援用のバスや伴走車まで大学に寄贈。私がそのバスを運転し、箱根の応援や合宿所への慰問、著名OBへの団体での支援依頼をしたこともあった」という(澤幡さんの思い出は「わたしの箱根駅伝」にも掲載)。
応援用バスと伴走車を大学に贈呈した会の発足メンバー(平成2年)

応援用バスと伴走車を大学に贈呈した会の発足メンバー(平成2年)

沿道の各支部に旗を配り応援依頼
総合優勝時の記念メダル。一部は販売し、翌年以降の支援金にあてた(平成8年)

総合優勝時の記念メダル。一部は販売し、
翌年以降の支援金にあてた(平成8年)

 会の結成当初について、前島さんは「応援旗などを作ったりした際など、水島先生は愛校の情熱が高かった人ですから、資金面でもお世話になりました。会の活動としては、初めは箱根に応援に行くだけでしたが、段々とそれぞれの中継地点に各支部の人に来ていただき、旗を降って『中大!中大!』と応援してもらいました。その頃はそういった活動をしていたのは中大くらいではなかったかと思います。成績のいい時などは、暮れになると『箱根駅伝を優勝させる会』などに一時的に改名して活動を行ったりもしました(笑)」と思い出を語っている。
OBの役割は強くなる環境づくり
 現在も、スズキ自動車会長・鈴木修氏(昭28法)ら著名OB経済人らが会員として名を連ねている会の活動は、チームと選手への経済的支援が主。年会費5,000円と任意の寄付を原資に、応援の呼びかけや選手の合宿等への差し入れ等を行っている。直近の活動について、事務局長の朝倉博さん(昭39経)に伺った。
 「夏の地方合宿に慰労訪問をしたり、グランド練習を応援したりといった精神面の応援と予算面においてもそれなりに確保をしています。第99回大会では2位になりましたので、吉居選手、中野選手に敢闘賞を贈りました。そのほか、チームに100万円を贈呈しました。それと、箱根駅伝の後は、出場した選手たちと慰労会を毎年行っています。2023年までは後楽園飯店で開催していたのですが、今年(2024年)は駿河台キャンパスで開催。後楽園飯店のときは100人ほどが参集。集まり具合は成績によります(笑)」
 さらに育英奨学金として学生を経済支援することも行っている。「ご家庭の事情があり、監督が認める実力がある学生については、資金面での援助をしています。以前は学生2人に対して支援していたのですが、現在は予算の都合上1人になっています。支援の期間は、4年間です」
 「成績が悪いと、どうなっているんだと文句を言ってくるOBがいますが、うちも頑張っているけど、他大学の選手もみんな必死。選手が力をより発揮できる環境をつくることがOB の役目」とも、朝倉さんは語っている。
若い世代、時代に合った支援策も模索
「若い人をどう集めるかが課題」だとする朝倉さん

「若い人をどう集めるかが課題」だとする朝倉さん

 箱根駅伝の人気が高まるにつれ、各大学ともにその強化に努めているが、経済的支援はやはり卒業生に恃むところが大きい。
 「昭和卒の先輩方の物心の支援は頭が下がる。しかし時代は変わったので、我々やさらにもっと若い世代に可能な新しい支援方法も考える必要がある」と平成卒の澤幡さんは提言する。事務局の朝倉さんも、「主要メンバーが高齢化し若い人をどう集めるかが課題」とし、「会としても大口の寄付頼りではなく、少額の支援を広く集める方策も検討したい」と語っている。

わたしの箱根駅伝
(投稿)

「箱根駅伝を強くする会」と父・澤幡仁

澤幡淳(平2法)
2024.1.10

澤幡仁氏。2002年

澤幡仁氏。2002年

 私の父・澤幡仁は昭和32年に経済学部を卒業しました。とても“中大愛”の強い人で、大学支援のさまざまなことに率先して関わっていました。私はもう生まれた時から中央大学に進むことが決まっていたようなもので、高校から中大付属に行かされました。家は江戸川の葛西でしたから、もっと近くの高校に行きたかったのですが、許してくれません。
 私が中大生だった1988年、父は中大の経済人の同窓会である南甲倶楽部で役員をしていました。その頃、倶楽部の創設者である水島廣雄さんの発案もあり、水島先生の教え子の日比野臣三郎さんら南甲の有志が中心となって「箱根駅伝を強くする会」を創ることになりました。父は、箱根駅伝の絶大な広告効果を知り、箱根駅伝を応援することは大学をPRする上で最も有効だと勇んで参加したようです。父は日比野さんのことを学生時代から知っていて、その妹と結婚します。妹とは私の母ですから、私は父が中大に進んでいなければ生まれていなかったということになります。私は中大のおかけで生まれてくることができたわけです(笑)。
 父は日比野さんに頼まれて運送会社の再建をしますが、それが現在私が社長をしている有隣運送です。「箱根駅伝を強くする会」は、現在の会長である中村重郎さんが引き受けてくださるまで、事務局は有隣運送内に置かれていました。
 「箱根駅伝を強くする会」の発足式は、半蔵門のダイヤモンドホテルでした。学生の私も、手伝いに駆り出されました。
 応援するということの第一は経済的な支援です。とにかくお金を集めようとことになったようですが、そこでの逸話がなかなか面白いのです。メンバーの中に西さんという証券会社の方がいて、その方が、お金を作るために自分が強くする会のメンバーに株の指南をすると言い、みなさん言われるがままに株を買ったようです。それが大当たりして、中でも水野さんという方は千万単位の利益を得たので、これをドカンと大学に寄付しようということになりました。その資金で、応援用のバスと伴走用のワゴン車を買ったのです。大学で贈呈式をやった時の写真の日付は1990年1月11日となっていますが、その前の箱根ではバスを使っていたと思います。どうもそのあたりの前後関係は不確かなのですが、伴走車は納車早々に陸上部の部員が運転してぶつけてしまったという話もありました。バスと伴走車の贈呈を受けた大学は車両の管理規定も作り、ドライバーも大学が手配して箱根の応援や学内行事の送迎などに使用していました。
 90年の3月に卒業した私は、父の出身地選出の代議士・梶山静六先生の秘書になりました。とても忙しい仕事だったので、しばらくは会の手伝いもすることはありませんでした。その後、10年ほど議員秘書をした私は、父の会社に入社することになりました。運送会社ですから、大型の免許も取らされます。そして応援用バスのドライバーもすることになったわけです。納車から10年経って、使い勝手の良い伴走用ワンボックスはずいぶん走っていたので廃車になりました。一方、バスの方は箱根と野尻湖や菅平の合宿への慰問など長距離はあっても、回数はそれほどでもないので走行距離はそれほどありませんでした。けれども1998年にディーゼル車の排ガス規制があって、大学としては所有し続けられないということで会に返還されることになったのです。父はバスを会社で引き取って、ナンバーを付け替え100万円以上もかけて規制対応に改造しました。運転手は私です。暮れで会社の仕事が忙しい時期だというのに、沿道の各支部への応援の旗配りなどのためにバスの運転をさせられました。大変でしたね(笑)。
 応援をするためにはお金がいります。会費や大口寄付だけでは足りませんから、父たちは小口でお金を集めることにも熱心でした。1996年の総合優勝の時は記念メダルや関係者のサイン入りの小旗をつくったりしましたが、それを希望者に販売して資金集めをしたりしていました。
 バスを運転して、箱根の応援や合宿の慰問以外にもいろいろなところに行きました。参議院議長から埼玉県知事になった土屋義彦先生を県庁に大勢でお訪ねするなど、各地の著名OBを訪問して支援をお願いしたりしました。しかしそのバスも、それから10年近く走っていよいよ廃車せざるを得ないかなということになりました。すると、父の長年の友人で、モンゴルとの交流を行っている藤本幹子さんから申し出があり、その手配で、モンゴルに渡りました。
 「箱根駅伝を強くする会」の活動をしていた父は、よく「大学当局は『運動部支援は均等に』が大勢で箱根支援の意義に理解がない」と嘆いていました。父は箱根駅伝だけを応援しているわけではなく、相撲部の後援会に参加をしたり水泳部の応援にも熱心でした。けれども、駅伝には集中的に力を入れれば大学の宣伝として大きな効果があり、それがまた他に波及するという考えでした。大学を良くしていくためにはいろいろな考えがあると思いますが、箱根を使ったブランド力の向上という父たちの考えは間違ってはいないと思います。
 父たちが大学を思って箱根駅伝を強くしていこうと考えたのですから、私たちも受け継ぐことでできるなら、そうしたいとは思います。しかし、父たちのようにはなかなかいかないかもしれません。父を含め昭和卒の先輩方の物心の支援は頭が下がりますが、時代は変わったので、私たちやさらにもっと若い世代に可能な新しい支援方法も考える必要があると思います。例えば、クラウドファンディングみたいな資金集めの仕組みとか、若い人に企画してもらえば何か生まれるかもしれません。
 若い頃は、父がなんであんなに中大が好きなのか不思議だと思ったこともありました。2022年2月に父が亡くなった後、遺品を整理したり、父が書いた自分史などを読み返してみて、父の人生のいくつかの重要な部分で、中大を抜きにしては語れないようなことが数々あったということを改めて確認しました。自分にとって大切な人との出会いを与えてくれた中大に感謝したいという気持ちが、箱根駅伝の応援をはじめとした、父の“中大愛”の行動だったのだと思います。

箱根駅伝関連参考サイト

東京箱根間往復大学駅伝競走公式ページ
中央大学ホームページ・箱根駅伝
中央大学駅伝応援サイト
タイムトラベル中大125・箱根駅伝初優勝
箱根駅伝/箱根駅伝の記録 - plala.or.jp
ウキペディア・東京箱根間往復大学駅伝競走
箱根駅伝番組公式サイト
読売新聞箱根駅伝特集サイト
笹川スポーツ財団・箱根駅伝の歴史

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