2025 理工学部特集
新1号館が竣工し、さらに令和8(2026)年4月の学部再編に向かい、大きく変貌しようとしている理工学部と後楽園キャンパス。理工学部卒学員に思い出とこれからへの期待を語っていただいた。
文理融合、学内ベンチャーに期待 ~舌間久芳(昭32工・土木)
文電気工学の学生が物理学の卒論を提出 ~金子和夫(昭34工・電気工学、36院)
文1号館の思い出、中大理系への期待 ~宮内良子(昭45理工・物理)
文「都心の理工」実力発揮の時代へ ~竹島 恭治(昭58理・管)
文地元の子供たちに大学は中大へと勧める ~須藤晃(平3理工・●)
文理融合、学内ベンチャーに期待
舌間 久芳(昭32工・土木)
理工学部の総ての改築を見届けた後、現1号館は取り壊されるという。2024年10月26日、旧1号館最後の内覧会ということで後楽園キャンパスに出向いた。
私は工学部の5回生なので、当時の工学部は水道橋で、後楽園は運動場だった。1年の時に同じ校地に文学部ができ、そこは女子学生が多かった。男ばかりの工学部は夜遅くまで実験という日もあったが、合間を縫って女子学生たちと話したりした。我々の時代の、最初の文理融合だ(笑)。
卒業後、後楽園に移り理工学部となった母校には、夕方仕事を持ち込んでよく通った。同時にその頃、土木の同窓会も設立された。仕事のことを先生に相談したり、学生に手伝ってもらったりした。そのような中で、各学科の同窓会もでき、2号館の会議室を借り、1号館地下の教職員食堂で歓談するなどしてよく集まった。学生との交流や就職支援もさかんだった。
私が同窓会を大切にするのは、同窓にいろいろとお世話になったからだ。といっても、設立間もない工学部の先輩はほとんどいない。それでも仕事で企業や役所に行くと、そこには必ず中央大学の他学部の先輩がいた。先輩がまた誰か同窓を探してくれる。困ったときに助けてもらったこともある。だから私も、後輩にはそのようにすべきだと思ったし、ネットワークを大いに使えとも言った。
1990年代の終わり頃、既存の土木同窓会など以外、すべての同窓会を設立しようという機運が高まった。大学の本部は多摩にあり職員の数も多いとは言えない中、歴代の学部長、事務長、職員の方々にはいろいろご尽力いただきご苦労をおかけした。感謝している。そして当時の8学科すべての同窓会が揃い、その証として2003年の新3号館竣工に際し、コンコースに記念に大時計の寄贈を行った。
理工学部は今、3学部への再編などが計画されていると聞く。ソフト、ハードなど各分野ごとに再編され、かつそこに横櫛を指す取り組みが行われ、さらに文系学部との連携も加われば、新しい展開も可能だ。学内ベンチャー企業の設立など、今後の大学に欠くことができない取り組みが、新構想の中で実現することを期待したい。理工学部には今も、世界に通用する研究者もいる。そういう人を大事にし、さらにそのネットワークも大いに活用すべきだ。
法学部が茗荷谷に来て、盛んに「文理融合」という言われているようだが、土木の仕事を長くやってきた私から言わせれば、文理融合なくして仕事はできない。橋ひとつ架けるにしても、両岸や川上川下の住民、自治体との調整が必要。法律も経済も、人間のことも知らねばならない。その意味では、理工が良くなるのではなく、中大全体が良くならなければ何にもならない。
後楽園キャンパスに出向いて思った。後楽園校舎は朝な夕な輝いている。母校を愛し、恩師を敬い、朋友と明日への展望を語り合った場は、これからも輝き続けてほしいと思う。
電気工学の学生が物理学の卒論を提出
金子 和夫(昭34工・電気工学、36院)
学部3年生の時に、量子力学を確立させたとも言われ世界的に有名なニールス・ボーア博士の愛弟子の福田光治先生に核物理学を受けた。当時、ボーア博士は存命だった。
福田先生の講義に感銘を受け、憧れて、電気工学性の学生なのに卒論を物理学で書くことにした。ところが、当初、学部長の判断はNO。それを聞いた若い助教授の大類浩先生が、「10年程前に早稲田の電気工学の学生が相対性理論を卒論のテーマにしている」と事例を探してくれてOKが出た。異例のことだったが、好きなテーマには熱が入る。そして私は卒論は完成し、学ぶ楽しさを知り、大学院に進んだ。科学の進歩は西洋哲学にありを知り、電気機械の共通点は、一次巻き線と二次巻き線があり、その伝達関数を示せれば、全ての解析が出来る事に気がつき、大学院1年の時、修士論文の理論を電気学会全国大会に発表出来た。
私の師、福田先生は東大を60歳で定年され、70歳定年の中大に来られた。今、東大の定年は65歳と聞いている。ならば中大は75歳定年にしてはどうか。優秀で実績のある先生方をさらに集める工夫を望みたい。
核物理学を学んだ私は、半導体事業で人生の大半を過ごした。そして現在、安全な原子炉としてトリウム溶融塩炉の開発事業化に関わっている。原子力発電についてはいろいろ意見が分かれていることは承知しているが、核物理学の研究は今後も重要であると私は考えている。最近、この分野の大学の学部は学生が集まらず、東京大学はじめ、ほとんどの大学の核物理学は閉鎖となった。その学部を出ても、廃炉分野の仕事しか見えない職場ばかりで、それには希望が見い出せない現状だ。以前の日本は、湯川秀樹さんをはじめ世界を導く有数の学者連がいる国だった。より安全な原子力発電システム、熔融塩炉発電がある。この分野ほ必ず発展する。核物理学の後進国にはならず、原子力分野にも将来があることを信じ、核物理学を見出す方針に突き進んで欲しい。
1号館の思い出、中大理系への期待
宮内 良子(昭45理工・物理)
中学生の頃から天文に興味があり、大学はその方面か物理に進みたいと思っていた。志望大学に落ちてしまい、滑り止めのつもりで受かっていた公務員の資格で、三鷹にある東京大学東京天文台(現・国立天文台)に就職することになった。当時は女性が浪人するというのはまれだった。大学に入り直しても、卒業後に天文台で採用してもらえるかどうかわからないので、働きながら中大理工学部の二部に通うことにした。
学生運動でストライキが多かった頃で、仕事が終わって学校に行っても授業がないという日もあった。教職課程も取ったので、夕方、昼間部の学生たちと一緒に授業を受け、体育は女子だけ駿河台校舎の屋上で受けた。同期の女性は3人で、学部全体でも女子はとても少ない。1号館の4階・5階で授業や実験があっても、トイレは1階まで下りないと女性用がない。そんな時代だった。
天文台では技術職から研究職となり、主任研究技師になって定年まで勤めた。主任研究技師は准教授相当と言う事で、女性では初めてだと言われた。天文台で務めている頃、もう40年近く前だと思うが、ある日、学員会立川支部から総会に来ないかとお誘いが来た。卒業後、物理の同窓会以外では仕事や研究で中大の人との接点はなく、文系の人はどんな人だろうという関心で覗いてみた。以来、支部の会合に顔を出すようになり、去年、前任支部長・山崎省次氏(文学部)の急逝の後を受けて支部長に仰せつかった。副支部長の一人も理工学部管理工学出身の後輩女性である。
私が入学した50数年前に ある先生が「今は『法科の中央』だが、法科が一番というのはいずれ変わる。司法試験には英語がないからな」と言っていた。その言葉をどう考えるかはわからないが、「法科の中央」に対して「理工の中央」と言われるようになろうという声は、以前から理工学部出身者の間ではあるようだ。
天文学研究は総合科学の世界。その周辺の宇宙関連の分野では、工学や理学のみならず、生物学などさまざまな分野が連携する。それは宇宙関連に限らない。理工学部が新しくなると聞いているが、新しい時代に向けて様々な学問研究が連携し、さらに発展することを願っている。
「都心の理工」実力発揮の時代へ
竹島 恭治(昭58理・管)
文系学部が移転した直後の昭和54(1979)年に入学したが、文系と理系とが別キャンパスと言うのはどこの学校でもそうなので、特に違和感は感じていなかった。「都心の理工」で通学が便利かつ授業後の所謂アフター5が充実しているということが入学動機だったので、受験会場として経験した当時の多摩キャンパスの奇麗さや設備の良さは知りつつも、羨ましいとは感じなかった。入学時の後楽園キャンパスは現4・5・6・8号館を新設中で、大学2年時には使用が開始され管理工学科(現ビジネスデータサイエンス学科)では、大きな設備を用いて実験をすることが殆どないため現在も5・6号館をメインに授業が行われていると思う。
卒業して東芝に入ると、中大卒は出世する人は多くないのだが、珍しくも2度も中大出身のゼネラル・マネージャーの下で働く機会があった。文系と理系の融合という思いよりは”へぇ~中大なんだ!!”という思いの方が強かった気がする。
社会人野球で強豪である東芝野球部が東京ドームでの都市対抗野球に出場する機会が多かったこともあり、オープンキャンパスも含めて折に触れて後楽園キャンパスを訪問した。新しい建屋が出来ていることにビックリするとともに、土地・空間利用の上手さに感服した記憶がある。今般1号館が立て直されることになり、入学当時ここの地下1階の食堂を利用していた事も懐かしく思い出される。
卒業後40年が経つが、当時と比べて人気、実力ともに上昇しているように感じる。限られた敷地だからか、大きな実験設備を要さない社会問題に対し科学を活用して解決していく学科が伸びているのではないかと思う。こういう学科は文系・理系の枠を超えてアプローチしなければ解決策にいきつかないので、新しい文系と理系の融合の姿が模索されていくことを願いたいし、理系女子がさらに門戸を叩きやすい環境になるのではないかという期待もある。さらには複雑化する社会問題に産官学連携での取組みが益々重要となるので、今こそ「都心の理工」の実力発揮の時代だ。
地元の子供たちに大学は中大へと勧める
須藤 晃(平3理工・●)
学生時代は東京ドーム建設中の頃で、それが出来上がるにつれ屋根が膨らんでいく状態を毎日見ていた。阿部寛さんが4年生で、学内で何度か見かけて「背が高くて格好良いなあ」と思ったものだ。狭い学校だったが、都会にあり何かと便利だった。その分、雀荘、馬券場、野球場などが近く、4年で卒業するために誘惑に負けぬようにと苦労した(笑)。多摩キャンパスは遠く、別の大学という感じだったが、1年生の後期に半年間だけ授業があった。授業の内容は忘れてしまったが、広くてきれいで「これがテレビドラマで見たキャンパスか」と思ったこと、弓道が楽しかったことなどが思い出だ。
理工学部としてトップとまでは言えなかったが、それでも中大理工に入学し卒業したことは誇りに思っているし、自慢でもある。社会に出て、卒業生がいろいろなところにいることが仕事を進める上でも助かっている。そんなこともあり、地元で指導している少年野球の卒団生には、大学は中大へと勧めている。今年、1人入学する予定。理系、文系でも将来社会で活躍できる人を育ててほしいし、誇れる大学であり続けてほしい。
中央大学理工学部小史
英吉利法律学校の18人の創立者たちは明治22(1889)年の創立以前から、帝国大学に匹敵する私立の総合大学設立を構想していたという。当時の総合大学のイメージは法学・文学・医学であった。その後、中央大学と名称変更し経済学部、商学部を設立し総合大学を目指していくが、医学部の設立は果たせぬまま戦時体制の時代を迎える。時代状況から求められた教育期間の短い理工系専門学校として中央工業専門学校が昭和19(1944)年に設立認可される。そして昭和24(1949)年の学制改革を機に同学校は工学部として認可され、本学はここから文理を備えた大学となる。
現在の後楽園キャンパスは昭和26(1951)年に用地購入される。同年、文学部が設立され、駿河台の工学部は新たに購入された水道橋校舎に移転する。昭和28(1953)年から文学部、工学部の教養課程は後楽園校舎で行われるようになる(文学部は昭和39年に駿河台に移転)。昭和37(1962)年、管理工学科と数学科、物理学科が加わり、学部名を理工学部に改称。翌昭和38(1963)年、創立80周年記念事業の一環として1号館が竣工した。